吉野弘幸「左フックの千両役者」 91年12月、ライバル・上山仁との名勝負「既に終わったものだと…気持ちの差がリングに出た」…前編

スポーツ報知
18年前に東京・葛飾にジムをオープンした吉野弘幸(吉野弘幸提供)

 10連続防衛中の現役日本チャンピオン同士がノンタイトル戦で激突。1991年12月9日、後楽園ホール。当時、日本ウエルター級王者だった吉野弘幸(ワタナベ)は、1階級重い日本スーパーウエルター級王者の上山仁(新日本木村)と対戦した。ともに10回の防衛を重ねた両選手の試合は、30年以上経った今でも色あせない名勝負として語り継がれている。豪快なボクシングでファンを魅了した吉野も56歳になり、現在は東京・葛飾区青戸で「エイチズスタイルボクシングジム」の代表を務めている。後楽園ホールのファンに愛された「左フックの千両役者」にボクサー時代、少年時代の思いなどを聞いた。(取材・構成=近藤英一、敬称略)

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 周囲の盛り上がりと期待に吉野は戸惑っていた。日本ボクシング界重量級スター同士の激突。10回もベルトを守り続けた者同士となれば、ファン垂ぜんの一戦だ。後楽園ホールはひとつの空席もなく、2階のバルコニー席もファンでごった返していた。

 「自分の中では(上山)仁ちゃんとはもう決着がついていたんです。初防衛戦で3回KO勝ちして、これで決着したと思っていた。3回目の対戦が決まっても、燃えるものがなくて、周りとはかなりの温度差があった。もう1回やっても左が当たれば倒せると思い込んでいました。でも、プロの世界はそこまで甘くはなかった。案の定、リングでは気持ちの差で負けました」。

 3年前の1988年5月、日本ウエルター級王座の初防戦。チャピオンの吉野は上山の挑戦を受け、十八番の左フックで3回KO勝ちした。倒れた上山は一度は立ち上がるが、直後に操り人形の糸が切れたように前のめりに崩れ落ちていった。

 86年11月の東日本新人王戦での初対戦では引き分けながら敗者扱いとなった。悔しい過去を払拭してお釣りがくるほどの完全決着。吉野の中で上山との因縁はこの時点で終わったものになっていた。

 対照的に1敗1分けとなった上山は、ライバルへのリベンジだけをモチベーションに戦い続けていた。1階級重いスーパーウエルター級に転向して王座を獲得。試合の度に吉野に味わわされた屈辱のKOシーンを見ることで気持ちを奮い立たせリングに向かっていた。そして吉野への雪辱の機会を静かに待ち、対策も周到に練っていた。

 ゴング直前の心境を吉野は包み隠さず話してくれた。

 「対策はゼロ。まぁ、いいか。何とかなるさ」。

 これが吉野の人生訓だ。試合は初回からファンの期待通りに激しい打ち合いとなった。意地と意地のぶつかり合い。打たれれば打ち返す。が、豪快に左を振り回す吉野に対し、上山は右のガードを固め、細かく当てる対照的なスタイルで対峙(たいじ)した。

 大声援が鳴りやまないホールにクライマックスが訪れたのは7回だ。吉野が左フックを打とうとモーションに入りかけた時だった。上山は相手の右ガードが下がった瞬間を見逃さず、一瞬早く左フックを打ち込んだ。吉野はあお向けにキャンバスに崩れ落ちた。立ち上がったが、続けざまにスタンディングダウン。最後は前のめりに倒され、ゴングが打ち鳴らされた。吉野の最大の武器は左フック。だが、打つ時に右のガードが下がる癖を見抜かれての完敗だった。

 左フック。ボクサー吉野はこの言葉に尽きる。その左を見たさにファンは後楽園ホールに足を運んだ。KOシーンは100%といっていいほど左フック。空振りもする。1度ではなく、何度もだ。あまりのスピードにリングサイドには風を切る音が聞こえる。対峙(たいじ)した相手には恐怖でしかない。ただ、左フックしかないのだ。オーソドックスな構えだが、右はその半分のパワーもない。左利きの右構え。強い手が前にあるアドバンテージはあるが、右構えになった理由がいかにも吉野らしい。

 ボクシングは中学卒業後にスタートした。ワタナベジムに入門すると、会長の渡辺から構え方やワンツーの打ち方を教わった。

 「会長は自分が左利きということを知らなかったんです。言わなかった自分も悪かったんですが、教えられたままの右構えで練習を続けていました。入った当時はあまりトレーナーもいなくて、独学みたいな感じでやっていたんです」。

 構えは右だが、出すパンチは自然と利き腕の左ばかりになる。違和感を覚えた渡辺が吉野の左利きに気付いたのはそれからしばらくしてから。不思議だが、吉野も構えを変えようとはしなかった。

 中華料理店でのアルバイト―。吉野の左腕を鍛え上げたキーワードでもある。中学を卒業すると運送会社での仕事を始め、国際ジムへ入門した。だが、多忙なためジムに足を運ぶことができず、どちらも辞めた。銀座の中華料理店でのアルバイトを探し、そこから地下鉄で一本だった五反田のワタナベジムに入門してプロを目指した。

 「左腕はあれで鍛えられたんです。2、3件分の注文を詰め込んで運ぶので重くて、重くて。スープがこぼれたら怒られる。麺がのびたら怒られる。スープでエレベーターを汚してはいけないので階段で十何階まで上がっていました」

 右手でハンドル、左手には岡持を持ち、銀座の街を自転車で疾走した。急いで配達するため自転車は常時立ちこぎ。ラーメン、炒飯などがびっしり詰まった岡持を持つ左手は常時「パンパンに張っていた」そうだ。バイトは16歳から日本タイトル挑戦直前までの約5年間続けた。年々太くなる左腕。破壊力満点の左は「岡持フック」と名付けられ、対戦相手からは恐れられた。日本ウエルター級の王座を手にしたのは1988年3月21日。圧倒的不利の中、チャンピオン坂本孝雄(新日本木村)を4回KOで破っている。この試合は東京ドームのこけら落としとして行われた元統一ヘビー級王者マイク・タイソン―トニー・タッブス(ともに米国)戦の前座という華々しい舞台で行われた。今では多くの世界王者を輩出しているワタナベジムに若干20歳の第1号チャンピオンが誕生した試合でもあった。

 豪放磊落(らいらく)。現実には何とかならないことの方が多いのだが、吉野は「まぁ、いいか。何とかなるさ」と悩まない。「あまりボクサー仲間とは一緒に遊んだりはしない」と、口にするが、吉野を慕う人間は後を絶たない。だが、その原点には、明るく振る舞う現在の姿からは想像もできないほどのつらく、悔しい幼少期の体験がある。

 「今に見ていろ。いつか見返してやる」。

 少年時代、そう心に叫び続けていた。(続く)

 ◆吉野 弘幸(よしの・ひろゆき)1967年8月13日、東京・葛飾区生まれ。85年2月に17歳でプロデビュー。88年3月に日本ウエルター級王座を獲得すると14連続防衛に成功。14度は同王座の最多防衛記録。その後、東洋太平洋ウエルター級、日本スーパーウエルター級王座も獲得。戦績は36勝(26KO)14敗1分け。身長177センチの右ボクサーファイター。

 ◆エイチズスタイルボクシングジム ウエルター級で日本、東洋太平洋、スーパーウエルター級で日本と2階級で3つのチャンピオンベルトを手にした吉野弘幸が2005年3月に世代を超えたボクシングジムとして開設。日本プロボクシング協会には非加盟だが、選手志望から健康維持まで小学生からシニア世代までが連日汗を流している。住所は東京都葛飾区青戸6―1―13 武藤商事ビル2F 京成電鉄・青砥駅下車2分。平日=午後2時~同10時、土曜=午後2時~同9時、日曜=午後1時~同4時。休館=祝日、祭日、年末年始。

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