キダ・タローがお金に苦慮した当時の業界人とは 「3つも4つもだまされるような男」 インタビュー〈後編〉

スポーツ報知
インタビューにこたえるキダ・タロー(カメラ・豊田 秀一)

 御年91で元気そのもの。“浪花のモーツァルト”こと作曲家でタレントのキダ・タローのインタビュー後編。世間知らずの“あまちゃん“で他人に騙された苦労話や、大好きだった近鉄バファローズについて大いに語った。(取材・構成=田中 昌宏)

* * *

 ―長い作曲家とタレントの生活。印象に残る出来事は何ですか。

 「だまされたことがようけあったことですね。18歳からバンド生活に入り、アコーディオンから同じ鍵盤楽器のピアノに移って、20歳過ぎで関西ではNO2にあたるビッグバンド。ある時、そこのバンドマスターが給料の支払いをストップしたんですよ。後から聞いたら『自費でスタジオ建てる』言うてると。怖いのんで有名な人で、誰も何にも言わない(笑い)。それが何年も続いて。靴とか衣装とかの月賦を出入りの業者に払えない。家にもお金を入れられへんから、家賃が払えない」

 ―それは大変な思いを。

 「もうひとつは、今と違ってテレビ局のディレクターやプロデューサーに“サムライ“がようけおったんですよ。その人たちが(懐に手を入れるしぐさで)ナイナイする。我々に1クール仕事させても全然払わない。そういうのが当たり前。さらに放送局自体、私がたくさん書いた曲のお金を払わない」

 ―お金で苦労…。

 「めちゃくちゃしましたね。領収証もうたらサインしますやろ。サインを“マルキダ“(キダの文字を○で囲ったもの)にしてますんやけど、それをあるプロデューサーがマネしはりましてね。全部“マルキダ”(笑い)。それやのに私に一銭も入らない。年末、税務署がばく大な額を(納税しろと)言うてきて。嫁さんがビックリして『こんなに仕事してません』言うてね。税務署の方が『それやったら(そのプロデューサーを)訴えられますか』て言うたんですど『訴えません』ちゅうことにしまして。せやけどだいたい(局などに)バレましたね」

 ―自業自得ですね。

 「悪い意味の“サムライ“がようけおりましたんです。でも、ものすごい清潔な方もいらっしゃいました。澤田さん(隆治氏=元朝日放送プロデューサーで番組制作会社『東阪企画』の創業者、昨年88歳で死去)なんか、作詞なさっても『恥ずかしい。カッコ悪い』言うて私の名前にしてくれと。いまだにその曲は『キダ・タロー作詞作曲』になってます」

 ―音楽で食べられるようになったのは、何歳くらいからですか。

 「よしいける、と思た時ですか。それが案外ないんですよ。もっと早よ思わなアカンのに。要するに“あまちゃん“なんですわ。(バンドマスター、プロデューサー、放送局など)3つも4つもだまされるような男ですから。末っ子で悪いことは耳に入れんように、上の姉やら兄がしてくれましたから。何にも知らん無垢(むく)なアホですわ」

 ―話は変わりますが、キダ先生は球団歌「近鉄バファローズの歌」を編曲されるなど、近鉄の熱狂的ファンとして知られていました。今はオリックスを応援されているんですか。

 「近鉄パールス! 好きになった理由は、六大学出のインテリ集団やから(球団が発足した1950年の開幕スタメン野手は8人全員が東京六大学出身)。上品。それだけで気に入ったんです。ガラ悪いの嫌いなんですよ」

 ―ガラ悪いの嫌い…。僕の知ってる近鉄やファン気質とは違うような(笑い)。2004年にオリックスと合併して翌年からオリックス・バファローズになりました。

 「(近鉄と)違いますでしょ。せやから(ファンを)辞めたんです。こんなん言うたらアレですけど、詐欺ですやん(笑い)。パールス好きで、バファローになって、バファローズになって。(1988年から92年まで監督を務めた)仰木(彬)さんとか感じええからずっと続けてました。それがオリックスと一緒になって何がバファローズやねんと。それで(すぐに応援を)辞めたらものすごいヤラしいから、球場にも行ってましたけど、だんだん遠のきましたね」

 ―兵庫・宝塚市生まれで阪急のお膝元、同・西宮市にある関西学院出身なのに阪急じゃなくて近鉄だったんですね。

 「失礼ですけど『オリックスはちゃうやろ』と。違和感あるんですよ。(前身は)阪急ブレーブスですよ。『バファローズと阪急とは敵やないかい』と。何か行かんようになりましたわ。情熱湧きませんもん。今はセ・リーグやったらヤクルト。パ・リーグやったら柳田(悠岐)のおるソフトバンクですね。そのへんが気にいってますねん」

 ◆キダ・タロー(本名・木田 太良)1930年12月6日、兵庫・宝塚市で6人きょうだいの末っ子として生まれる。91歳。関西学院中、高を経て同大学に合格したが入学せず。幼少期からアコーディオンになじみ、18歳からタンゴバンドで演奏。ピアニストに転向し、作曲活動を始める。2010年に生誕80年記念のアンソロジーCD「キダ・タローのほんまにすべて」を発売。作品100曲を収録。

芸能

×