小椋佳、音楽活動“引退” 東大卒業後は銀行員と歌手を両立 “二刀流”貫いた理由…インタビュー前編

スポーツ報知
インタビューに応じる小椋佳

 「シクラメンのかほり」「愛燦燦」「夢芝居」など2000曲以上を生み出し、300人超のアーティストに楽曲を提供してきたシンガー・ソングライターの小椋佳(78)が現在開催中のファイナルコンサートツアー「余生、もういいかい」をもって音楽活動から“引退”する。銀行員と歌手を両立しながら、道なき道を切り開いてきた“元祖・二刀流”は、いま何を思うのか。(高橋 誠司、増田 寛)

 白い作務衣(さむえ)を着て、のっそりと取材部屋に入ってきた小椋は、ラストツアーについて「もういいでしょ」とつぶやいた。

 「疲れてしまった。体力も筋力もなくなって、本当に老いてますよ。何をやるのもめんどくさい。生きてるのもめんどくさい。ましてや、歌うのなんてめんどくさい。お釈迦(しゃか)様は人生の4つの苦しみは『生老病死』だと言ったけど、30代の若さで、生きることが苦しみの一つと悟ったのはすごいね。僕なんて、もう生きてるだけで苦しくてしょうがないから。死にたいとは思わないけど、死ぬのは別にしょうがないですよ。本当は70歳の時の生前葬コンサートでケリをつけようと思ってたんです。あの後、すぐに死んでれば完結だったんですけど、生き延びちゃったもんですから」

 ツアーはコロナ禍で当初の予定より遅れ、“引退公演”は来年になりそうだ。「毎回、今日で終わりだと思ってますから。舞台袖では祈りの言葉を10回ほど言って自分を奮い立たせてます。力道山が空手チョップやる前に、やるぞ!ってポーズ取るでしょ? そんなのも出番前にやったりしてます」

 世間で“引退”と報じられることについては「自分では引退という言葉は使ったことがない」と首をかしげた。「いつの間にか、皆さんが引退という言葉を使い始めただけで。そもそも、僕は銀行からシカゴの大学に留学してる間に最初のアルバム(71年の『青春~砂漠の少年』)が日本で発売された。どんな反響があるのか、さっぱり分からないから、自分でデビューした覚えが全くない。だから、引退ではないですね。死ぬつもりでいるんで。今日も死に装束です」。今もセブンスターを1日2箱、40本吸い、コカ・コーラの1・5リットルのボトル6本を1週間で飲みきる。昨年12月に足の手術を受けたが、たばこを吸いたくてたまらず3日の予定を1日で退院した。

 最近、寝る際に“入眠剤”として、昔の自分のレコードを聴くという。「若い時の自分の声を聞くと、いい声してるなって思いますからね。小椋佳ってやっぱり良かったんだと思いますよ。高い声が本当に薄ーく出るんです。柔らかく響きがある、心地よく聞こえてくる声。味のある声って訓練しても出てこない。複合音が出るんです。これは両親に感謝ですね。今は高い声は張らないと出なくなった。声が出ないって悔しいですね」

 ベストパフォーマンスは76年10月、NHKホールで行った初コンサート。「舞台に立つとやめられないとよく言うけど、僕はウソだと思ってたの。でも、少ないけど、時折あるんですね。自分が思う存分に歌えていると思える時が。お客さんの方から、ワーッとしたものが押し寄せてくる。それが本当に快感。これを味わうとやめられない」

 東大を出て日本勧業銀行(後の第一勧業銀行、現・みずほ銀行)で働きながらの音楽活動。大谷翔平の半世紀も前に“二刀流”を実現させていた。「彼の活躍はすごいなあと思います。僕もそういうマルチに活躍するパイオニアではあったかもしれないですね」と控えめながらも、そこには確固たる信念があった。「当時は、みんな個を失っていく日本社会だった。だから、僕はその組織内存在になりつつ、自分はどうなるかっていうのを、見つめていたかった。それを何らかの形で表現するのが、僕の基本姿勢でしたから。だから銀行員を辞めるというのは全然考えになかった」

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