森光子さん生誕100年…芸能界で慕われた「お母さん」主演舞台「放浪記」など振り返る

スポーツ報知
森光子さん

 主演舞台「放浪記」などで知られ、12年に92歳で死去した女優の森光子さんが、9日に生誕100年を迎えた。1961年に初演の「放浪記」は前人未到の上演2017回を達成。女優として初めて国民栄誉賞を受賞した。また、少年隊の東山紀之と“永遠の恋人”を印象づけるなど、最期まで変わらぬ若さを貫いた森さんを振り返る。

 森さんは、芸能界で「お母さん」と慕われてきた。練り上げた演技と分け隔てしない人柄から付いた“称号”だ。そこに至る過程には多くの苦難と辛酸があった。

 京都で旅館を経営していた母親と死別。高等女学校を中退し、いとこの俳優・嵐寛寿郎のもとに身を寄せた。戦後は結核のため療養生活を余儀なくされたことも。

 「放浪記」のヒットなどで大衆的な人気を得てからも肺炎などに見舞われ、病院から劇場入りすることもしばしば。主治医から「休ませたら病気が悪くなる」と、劇場に送り出されたというエピソードもある。

 「放浪記」の台本について「何回も読んだつもりでも、読み込みが足りず良さが分かっていないことに気が付く」と演技を磨く努力を怠らなかった。1997年、東京・新国立劇場のこけら落とし公演「紙屋町さくらホテル」(井上ひさし作)で新劇の俳優と共演するなど、毎年のように新作舞台に取り組み、老いてなお新境地に挑んだ。

 芸にまつわることならどこにでも足を運び、小劇場に顔を出し、共演する若者たちの面倒を見ることにも心を砕いた。「芝居は厳しく、楽屋は温かく」がモットー。森さんの周囲には自然と人の輪ができ上がり、そのチームワークを礎に2000回を超す「放浪記」公演という金字塔を打ち立てた。

 ◆森さん語録

 上演2000回を超す偉業の裏で、地道でひた向きな努力を重ねてきた俳優の森光子さん。芝居への執念やファンへの感謝など、人間性がにじみ出た言葉をインタビューなどから拾った。

 ▽白いハンカチ

 感動して泣いてくださる観客が多い。客席に白いハンカチが波立ち、チーンとはなをかむ音で分かるんです。(1990年9月の舞台「放浪記」1000回達成で)

 ▽ゴールはない

 役者にゴールはありません。この道を一生懸命走っていきます。(2003年7月、「放浪記」1700回を前にして)

 ▽突然やるかも

 複雑な気持ちです。これほどご心配をお掛けしているとは思わず、申し訳ない。でも、ある日突然やるかも。(07年11月、「放浪記」の名シーン、でんぐり返しの封印が決まって)

 ▽神様が決める

 この役は手放したくないけど、それは神様が決める。祈るような思いです。(09年3月、上演2000回を超える「放浪記」の制作発表で)

 ▽ファンが台本を

 ファンの皆さんが台本を書いてくれたみたい。夢が全部つながっていきます。(09年7月、国民栄誉賞の受賞後も新作舞台の出演が相次いで)

 ▽舞台を休む苦しみ

 役者にとりまして、舞台をお休みすることは、これに勝る苦しみはございません。毎日毎夜考え悩みました。(10年2月、「放浪記」の公演中止を決意して)

 ◆森光子(もり・みつこ)本名・村上美津。1920年5月9日、京都府生まれ。35年に芸能界デビュー。代表作「放浪記」には、61年から2009年まで2017回出演しており日本最多記録。大衆演劇の第一人者としての地位を確立した。テレビでは「時間ですよ」や「3時のあなた」「NHK紅白歌合戦」の司会などで活躍。84年紫綬褒章、92年勲三等瑞宝章、05年文化勲章。09年国民栄誉賞。血液型B。プライベートでは、46年に日系2世の米兵リチャード・ウエムラと結婚するも、1週間後にウエムラは帰国。以後再会せず。59年にはテレビディレクターの岡本愛彦氏と結婚。63年に離婚した。2012年11月10日午後6時37分、肺炎による心不全のため都内の病院で死去した。

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