11. FLYING KIDSのオリジナルメンバー7人が揃う

――まだ名前が出てきてないベースの伏島和雄さんとはいつ知り合ったんですか。

 フセマンは重音の部長で、加藤がギターを弾いてたバックウォーターのメンバーでしたから、かなり早い段階で知り合っていたはずです。加藤の絡みで僕はバックウォーターのリハを何度か見に行っていたし、イベンターをしていた重音の先輩の福嶋勤さんに声をかけられて、憂歌団のライブとかブルースのイベントとかの設営とか警備のバイトを、フセマンや他のメンバーと一緒にすることもありましたから。あのブルースのイベント、いつだったかなあ(とiPhoneで検索)。第1回目の“ジャパン・ブルース&ソウル・カーニバル”ですね。出演者がジョニー・アダムス&アール・キング、フィッシュボーン、憂歌団、シーナ&ザ・ロケッツ、ダンガン・ブラザーズ・バンド、ヤンキース。場所は日比谷野外音楽堂で、86年7月13日です。

――それって重音のライブの2日前じゃないですか(笑)。

 (笑)。そんなスケジュールでやってたんだ。すげえなー(笑)。あのバイトはライブも観られたし、すごくよかったですね。

――伏島さんと最初に一緒に演奏したのはいつですか。

 86年の年末か87年の年明け早々です。バックウォーターはスティーリー・ダンっぽいコード進行のシティポップ的なサウンドのオリジナル曲をたくさんやっているバンドで、沖縄出身のキンちゃん(当真均さん)がヴォーカルをやっていたんですが、四谷フォーバレーのライブ直前に親族が亡くなって、急遽実家に帰ることになるんですよ。それでなぜか僕に、“キンちゃんの代わりにヴォーカルをやってくれ”と声がかかりまして。今から思うと、それが淳ちゃん以外のFLYING KIDSのメンバーでやった初めてのライブになりましたね。

[バックウォーターのメンバーは伏島(B)、中園(DS)、加藤(G)、丸山(G)、飯野(KEY)、当真均(VO)]

――FLYING KIDSのオリジナルメンバー7人が揃った経緯も教えてください。

 フセマンは当時、バックウォーターだけでなく群馬時代からの友人・石垣尚久さんと、パルジファルという7人組のバンドもやっていたんですよ。ボーカル&ギターの石垣さんが作る世界観はすごく独特で、デビューも決まっていた。でもいろいろあったんでしょう。フセマンはパルジファルを脱退し、ある日、僕と加藤のところにやって来て「FLYING KIDSをやる、俺がリーダーになる」と宣言するんです。さらに少しして、同じくパルジファルのメンバーでもあった飯野さんと丸山さんが、FLYING KIDSに入る。どちらもフセマンが誘ったはずです。やっぱりキーボードはいたほうがいい、だったら知識が豊富で、コードワークに独特なセンスがあって、いろんな音色を扱える飯野さんだ、と声をかけたんだと思います。実際、飯野さんが入った時には「すごい人がきたなー」という感じでした。丸山さんは、イカしたファンクギターと耳のよさで仲間内ではスターでしたから、「もう一人ギターがいてもいいんじゃないか、丸山さんが入ったら強力だよね」というので声をかけたら、すぐに「入る」と言ってくれたらしい。さらに中園さんが「やっぱりコーラスもいたほうがいいんじゃない? 淳ちゃんも入れようよ」って。中園さんはポケットキャブもやっていたから、淳ちゃんをよく知ってたんですよ。それが1988年2月でしたね。

(初期のFLYING KIDS。右から中園浩之、浜谷淳子、丸山史朗、伏島和雄、飯野竜彦、加藤英彦、浜崎貴司)


インタビュー : 木村由理江