脇役本

増補Web版

復活の朝 千秋実


 女優の斉藤とも子。社会福祉士で、平和をテーマにした朗読や、発展途上国で暮らす小児がんの子どもたちの支援にも取り組む。『ゆうひが丘の総理大臣』(日本テレビ、1978年10月~79年10月)で魅せた凛とした佇まいは、いまも変わらない。
 小学5年生のとき、最愛の母が病に倒れた。結腸ガン、余命3ヵ月の告知。父の必死の看病のもと闘病を続けるが、小学校卒業を間近に控えたある日、母は息をひきとる。母の死と向き合うなかでの中学生活。そこで、とも子は――

 そのころから、〈演じる〉ことのすばらしさに少しずつ魅かれだした。
 そんなある日テレビで『微笑』を見た。ガンと知りながら、残された生命を必死に生きようとする主人公とその妻を支える夫。
 物語は、亡くなった母と重なり合って、わたしの心を、しっかりととらえた。
 人にこんなにも感動を与えられる仕事が、ほかにあるだろうか。わたしは、自分の中で熱く燃えあがるものを、どうすることもできないほどはっきり感じた。
 十四歳の春のことだった。
(斉藤とも子『青春の時間割』(現代新社、1979年4月)


斉藤とも子『青春の時間割』(現代新社、1979年4月)

 ドラマ『微笑』(連続8回)は、昭和50(1975)年4月から5月まで、日本テレビの「火曜劇場」で放送された。原作は近藤啓太郎で、自身の実話がもとになっている。近藤の役を千秋実(ちあき・みのる 1917-1999)が、ガンで世を去る妻を高峰秀子が演じた。
 時として粗製乱造になるテレビの仕事に否定的だった高峰だが、「この作品なら」と出演を承諾。千秋とともに描いた夫婦愛は、大きな話題となる。当時14歳の斉藤とも子はそこに、両親の姿を重ね合わせた。


「讀賣新聞」1975年4月15日付朝刊

 ところが、『微笑』は予想だにしないアクシデントに見舞われる。撮影が大詰めを迎えるなか、千秋が脳内出血で倒れたのだ。生死の境をさまよい、一命はとりとめるも重篤だった。『微笑』は、演出を変更するなどして、なんとか放送をのりきった。
 当時の千秋は、テレビで売れっ子のベテランであった。ワイドショーや週刊誌は「千秋実、重体」と書きたて、妻の佐々木文枝(父は佐々木孝丸)の献身的な看護を取り上げた。

 千秋実のエッセイ集『生きるなり 脳卒中から奇跡の生還』(文藝春秋、1979年10月)は、その壮絶な闘病記である。病と向き合う千秋のエッセイと、文枝の手記を交互におさめながら、カムバックするまでの日々が綴られる。


千秋実『生きるなり 脳卒中から奇跡の生還』(文藝春秋、1979年10月)

 初版で終わる「脇役本」が多いなか、この本は売れた。ジャージ姿で土手を走る千秋の姿は、どことなく和む。でも、読むとつらくなる。血圧の高さが、行間にあふれる。
 思うように回復せず、「再起不能」「過去の人」といったマスコミの声が聞こえ、千秋は精神的に追いつめられていく。その苛酷な日々は、夫に寄り添う文枝も同じである。
 演じることへの執念は失わない。それができなければ、自分はおしまい。それが俳優としての支え、生きる糧となった。水谷豊や桃井かおりなど、若い俳優の仕事に刺激も受けた。でも――

 ひょっとすると少しずつ頭が回復してきたのかな、とかすかな希望が出たりひっこんだりする。
 三月下旬に、黒沢明監督の誕生祝いパーティの案内状がきた。『羅生門』『七人の侍』以来永年のつき合いだが、見ただけで憂うつになり欠席の返事を出す。「出て行けば、皆んな元気でやっているのに俺は……と思うと」とまた一時間も二時間もぼやく。さんざんぼやくと少し元気になり、このところ時たま試みるウイスキーのうすい水割りを二杯のむ。
(『生きるなり 脳卒中から奇跡の生還』)

 そんなとき千秋は、あるテレビドラマを見た。
 昭和51(1976)年7月29日放送の『落日燃ゆ』(NETテレビ=現・テレビ朝日)である。原作は城山三郎、脚本は松山善三、「東京裁判」で処刑された広田弘毅を滝沢修が、夫に殉じた妻の静子を高峰秀子が演じた。
 滝沢の、その格調高い演技は、多くの視聴者の共感を誘った。千秋もそのひとりだった。

 滝沢さんがここまで到達したか、と感銘を受けた。そのうえ私自身もつい先頃までのように、「それにひきかえ自分は……」というウツ状態に陥らないのがうれしい。
 滝沢さんはどっちかというと演りに演る技巧派だと思っていた。が、私の知らぬまに、そういうところからとうに脱却し、自分の演じる役の、人間の本質をつかんだら、その太いすじを通したら、技巧はいらない、いっさいの枝葉を切りすてたような、心の演技というか、枯れた演技というか、とにかく素晴らしい内面的演技で人の心をうつ。 
(前掲書)

 沈みがちだった千秋に心境の変化がおとずれる。行間に重いものがあふれる『生きるなり』に、すこしずつ光明が差しこむ。

「ようし、俺も、脳卒中をやったからまだせりふも動きも人に劣るかもしれない。しかし人間の本質をつかんで、こまかい技巧にとらわれない芝居をやることは出来ないはずはない。どこまで上っていけるかわからないが一歩ずつ上って行くのだ」と考える。
 後ろ向きだった姿勢がともかく前向きになった。
(前掲書)

 滝沢修とおなじく、千秋実も、新劇の舞台で研鑽をつんだ。大正6(1917)年、北海道生まれ。中央大学法学部を中退後、昭和11(1936)年に新築地劇団に入る。
 戦時中は移動演劇「ほがらか隊」を率い、戦後は妻の文枝(芸名は佐々木踏絵)、義父の佐々木孝丸らと薔薇座を立ち上げる。その前後の日々は、千秋と文枝(踏絵)の共著『わが青春の薔薇座』(リヨン社、1989年5月)にくわしい。
 その後の活躍は、旧作邦画ファンには周知のとおり。黒澤明の作品はもちろん、昭和30年代の東映時代劇でのバイプレーヤー、田坂具隆や内田吐夢の作品での演技が印象ぶかい。小林正樹監督の『からみ合い』(松竹、1962年)のように、滝沢修と共演した映画もある。


『からみ合い』(松竹、1962年)。左より、滝沢修、岸恵子、信欣三、渡辺美佐子、千秋実

 本ブログの第1回(https://hamadakengo.hatenablog.jp/entry/20190415)で、加東大介が山茶花究の演技に、最大限の敬意を示したことを書いた。
 千秋実と滝沢修。同じ役者どうし、素直に相手の仕事をリスペクトする。とても素敵なことだ。飄々として、とぼけた芸風の千秋だったが、芯のしっかりとした名優であった。
 一度は重体説まで報じられながら、つらいリハビリを乗りこえた千秋は、発病の翌年(1976年)にカムバック。
 昭和52(1977)年11月24日放送『NHK特集 日本の戦後』第7回「退陣の朝~革新内閣の九ヶ月~」では、社会党の片山哲を演じた。松村達雄の吉田茂、伊藤雄之助の芦田均、宮口精二の鈴木茂三郎、神田隆の西尾末広、久米明の大野伴睦、丹阿弥谷津子の片山夫人ら豪華な顔ぶれのなか、堂々たる主演である。


『NHK特集 日本の戦後』第7回「退陣の朝 革新内閣の九ヶ月」(NHK、1977年)。千秋実(右)と伊藤雄之助(左)

 マッカーサーや国民の支持のもと、憲政史上初の革新内閣を率いた総理大臣、片山哲。理想に燃えつつも、政党内の悪しき力学のなか、志なかばで退陣の日をむかえる。「片山さんは正直すぎる」と口にした同じ党の鈴木茂三郎(宮口)に、温厚な人柄を崩さなかった片山が爆発させたくやしさ、やるせなさ。
 暑いさかりの撮影で、セリフも多い。そのなかで千秋は、滝沢修が演じたように、時代に翻弄された首相を演じきった。それは本人にとっても、満足のゆく仕事となる。

 ぐず哲と仇名された、悪らつさのない、誠実な片山首相のおもかげは、そっくりだといわれた。外見も外見だが、なによりその人の中味をと心がけた私の演技がうまくいったと、久しぶりに満足し、負担をかけた甲斐があったと思った。
 こうしてひと仕事毎に、現場でカンをとり戻し、自信もついてくる。
(前掲書)


『NHK特集 日本の戦後』第7回「退陣の朝 革新内閣の九ヶ月」

 したたかさで、とぼけた山内一豊が愉快な『関ヶ原』(TBS、1981年1月)。認知症と向き合う考古学者を熱演した『花いちもんめ。』(東映、1985年)。復活を遂げたのちも、いろいろな千秋実が頭に浮かぶ。
 昭和55(1980)年には自著『生きるなり』が、「木曜ゴールデンドラマ」(日本テレビ)でドラマ化された(7月24日放送)。千秋の役を千秋本人が、妻の文枝を池内淳子が演じ、高峰秀子も友情出演する豪華版となった。

 平成9(1997)年のクリスマスイブ、三船敏郎が世を去る。
 それを伝えるテレビワイドショーで、千秋はインタビューを受けた。「『七人の侍』は僕以外、みんな死んじゃったね」。「稲葉義男さんは?」と芸能レポーター。「稲葉義男? ああ、彼も死んだらしいのよ」。
 稲葉義男は存命だったけれど、すでに引退していたので、そう勘違いしたのも無理はない。飄々としたマイペースな佇まいが懐かしかった。
 生前の千秋実を見た、それが最後だった。