陸軍大将・田中義一を巡る時代の暗部
政党政治に金がかかることは、昔から同じだった。原敬の後を受けて政友会総裁になった高橋是清は資金繰りの才能がなく、政友会は派閥争いに明け暮れていた。そこで政党と関係のない大物の田中義一に白羽の矢が立った。田中は、山県有朋につながる純然たる長州陸軍閥の人間だが、政治への野心を持っていた。
田中が政友会総裁となったのは1925年(大正14年)。憲政会の若槻礼次郎(第1次)に代わって首相となったのは、昭和に入って5ヵ月後のことだが、その間に彼を巡る疑惑が世間を揺るがした。
田中は政友会総裁に就任するに当たり、当時としては大金の300万円を持参金として携えた。この300万円の出所が様々に噂された。田中のために神戸の高利貸から300万円を調達する仲介をしたのに、報酬を得られなかったという訴えがちょうどあった。
続いて、収賄容疑でクビになった陸軍大臣官房付主計が反田中派に担がれて、陸軍の金庫には田中陸相らの個人名義で総額800万円を下らない預金証書があり、それが逐次、無記名公債として買い換えられていたと告発した。
そうした事実から、田中がシベリア出兵時の陸軍機密費(会計検査院の検査外)の一部を横領し、これを公債に変えて300万円調達の担保にしたのではないか、との推測となった。しかし、この機密費事件は不起訴に終わっている。
この事件には伏線がある。東京地裁検事局でこの事件を担当していたのは、「鬼検事」として妥協を許さない石田基次席検事。この石田検事が1926年(大正15年)10月30日早朝、国鉄大森―鎌田間の線路に沿った小川で変死体となって発見された。
このころ機密費事件で劣勢に立った政友会は、別の事件(朴烈事件と松島遊郭事件)を利用して憲政会の若槻内閣に一矢を報いようとしていた。これらの事件を担当していたのも、石田検事であった。しかし、同検事の遺体は解剖もされずに火葬され、簡単に過失死として片づけられた。それから2カ月後の12月25日、大正は終わりを告げ昭和に切り替わる。
松本清張の『昭和史発掘』は、この「陸軍機密費問題」と「石田検事の怪死」から始まっている。そして、清張は田中義一の持参した300万円はやはり陸軍機密費から出たものであろうとし、石田検事の死は右翼団体を使っての政治的謀殺であったろうと推理している。
軍部と暗殺――。昭和の前半を象徴する言葉である。大正デモクラシーのもと民主主義を推進した政党政治は、暴力による支配を防ぎ切れなかった。ワイマール共和国と同様、その責任は政党自体にもあった。
昭和に入ると、田中内閣のもとで関東軍が満州軍閥の張作霖を邪魔になったとして爆殺(1928年=昭和3年)、軍部の独走を許すこととなる。そして、関東軍は1931年(昭和6年)、一挙に満州を支配しようと奉天北方の柳条湖で鉄道を爆破して満州事変を起こし、その直後に内閣を組織した犬養毅も暗殺されて、戦前の政党政治は終焉を迎える。
満州事変以降は思想統制がさらに強化され、自由主義的論調でさえ弾圧される。先に挙げた美濃部達吉の天皇機関説は1935年(昭和10年)、国体に反すると議会で糾弾され、国体明徴運動につながる。美濃部の著書は発禁となり、本人は貴族院を辞職、暴漢にも撃たれ重傷を負う。
太平洋戦争開戦1年前の1940年(昭和15年)には全政党が解散し、挙国政党として大政翼賛会が発足する。ドイツ・ナチは政権を獲得した33年にナチ党以外の政党を全て禁止している。
「個人」か、それとも「社会」か
近代の国民国家のもとでは、個人は国家を離れては存在できない。個人は国家によって生命・財産が保障される一方、様々な形で国家に義務を負う。個々人が国の方向性について、それが国益に適うかどうかを視点として持つ。
一方で、近代社会の進展につれて、個人の自由意識も強くなってくる。万人が自分らしく生きようと願い、それが国家の求める個人像との間に乖離を生み出すことも増えてくる。
しかし古今東西、勇ましい論調の方が大衆の支持を得る。国家間の競争と軋轢が激しくなるにつれて、国家主体の思想の方が優勢となってくる。その思想に同化した方が、個人としても生きやすい。
ワイマール共和国は東方におけるドイツ人の「生存圏」確保のために、大正デモクラシーは大陸における権益拡大要求から、いずれも国益の名のもとに強い国家が志向されていった。
冒頭に挙げた大杉栄・伊藤野枝夫妻の掲げるアナキズムは、基本的には個人の自由に最大価値を置く思想であり、それを妨げる政府のような権力を否定するものであった。その急進性ゆえ暴力的なイメージが浸透し、夫妻は国家によって葬られた。
個人が自由を好き勝手に追求すると社会は収拾がつかなくなる、との認識が支配的となれば、社会は暴力によって自由を抹殺する方向へと向かう。
健全な民主主義を育むのは難しい。