天空から2 日銀本店を上から見れば

2015年 07月16日

  前回からの続きです。大手町の上空からの風景を見てくると、日本橋川を挟んですぐ隣町にある日本橋本石町に目が行きます。今回は、ここにある日銀本店の屋根の形の話です。

    日銀本店本館(日本橋本石町) 明治29年(1896年)竣工
日銀本店
 2007年にフジテレビ系列の「トリビアの泉」という番組で「日銀本店の屋根」が取り上げられ、これが「円」に見えると話題になったようです。たしかに「円」に見えます。
             日銀本店本館の屋根       グーグルアース
日銀本店 上から
 日本の通貨を管理している日銀の建物ですから、この建物の屋根が意識的に設計されたのか、世間でいろいろ物議をかもしました。
 日銀本店が着工されたのは明治24年(1891年)。このとき紙幣で使用していた文字は「円」でなく旧字体の「圓」。この表記は戦後の昭和21年(1946年)に新字体の「円」になるまで変わっていません。そこで屋根の形は、意識的に設計したものではなく、「偶然の造形」というのが大方の意見のようです。
国立銀行券
 しかし、日銀本店建物の設計当時から簡略化された「円」という文字が一般に通用し、設計者がこれを意識していたとするならどうでしょうか。話は違ってきます。この点について、ネット上にいろいろ書かれており、屋上屋を架すきらいはありますが、考えてみます。

 新字体は当用漢字(昭和21年内閣告示)、常用漢字(昭和56年同)等で公式の簡易慣用字体になったものを指します。国語審議会の答申に基づき、学習等の便宜のため複雑かつ不統一だった従来の文字を整理したものです。ここで採用された漢字は、当用漢字等とされたときに突然新しく作ったものではなく、以前から民間で使われていた使用頻度の高い簡略な文字を公認したものです。そうであれば、「新字体」という表現は、ある局面では誤解を生む元になりかねません。

 それでは、「円」は日銀本店が設計された頃、民間で一般的に使われていたでしょうか。「圓」は草書体で書くと、くずし字となり徐々に簡略化されて変化し、異体字を生みます。
円の変遷
 まず四角の連続を避け変化をつけるため、員の口の部分をムと書く。次に進むと員を縦線に略する。さらに変化して口の下の一の部分がせり上がった形になる。文字の書きやすさや筆を動かす手間の削減により、このような変化で簡略化されてきたのでしょうか。
円 空海
 最も簡略化された「円」はいつごろから書かれたかについては、漢字の研究者の笹原宏之氏の「日本の漢字」(岩波新書)が参考になります。
 同書によると、平安時代の僧侶である空海の「三十帖策子」にも現在の「円」に近い簡略された使用例があるようです。また同書によると明治の明朝体活字でも下の一が少しせり上がった活字が準備され、円という略字の固定化の趨勢が見られるそうです。
 このように見てくると、日銀本店の設計当時から書き文字として民間で一般的に使われていたと考えられます。そうであるなら日銀本店建物の設計者にも「圓」の異体字の「円」自体は意識されていたと思われます。
 それでは、日銀本店建物の設計者はこれを意識して設計に取り入れたのでしょうか。日銀本店のある場所は、江戸時代には江戸本石町の一角で金貨の鋳造や鑑定を行った「金座」といわれたところ。ここでは通貨の発行という現在の中央銀行業務も行っていたそうです。
 明治政府が日本の通貨単位を「圓(円)」にすることを決めたのは明治4年(1871年)。新貨条例(明治4年5月10日太政官布告)によります。日銀本店建物が着工される20年前です。
 このような歴史的、時間的経過を考えると、日銀から建物の設計を依頼された者が日銀の管理する通貨を設計面で意識するのは当然ではないかと思います。金座の跡地に造る中央銀行(日銀)の建物に象徴的な通貨の「圓(円)」形を取り入れたいと考えるのはむしろ設計者の夢ではないでしょうか。
 ただ「圓」では屋根の造形上複雑すぎます。そこで建設技術的可能で、一般に使われている簡略形の「円」で造形してみよう。このように考えるのは不自然ではないと考えます。
辰野金吾
 設計者は明治建築界の重鎮で、中央停車場(東京駅)、万世橋駅等、全国に数々の名作を残した、近代建築の父といわれたあの辰野金吾氏。

 一昨年(2013年)の4月、辰野金吾氏が設計した東京駅の丸の内北口と南口の各ドームの天井に架けられた八つの干支のレリーフ以外の、四つの干支の板でできた彫り物が、同じく辰野氏が設計した佐賀県武雄市の武雄温泉楼門の2階の天井に架けられていたことが判明し話題になりました。辰野氏は武雄市の隣の唐津市の出身。

元武雄市長 樋渡氏のブログより佐賀新聞・西日本新聞の孫引き http://hiwa1118.exblog.jp/18575423

     東京駅丸の内口のドーム
丸の内 天井
 これで十二支が揃ったことになります。東京駅の干支のレリーフはなぜ八つであったのか謎とされてきました。東京駅の干支のレリーフは、干支の方角どおりに並んでおり風水の鬼門とされている東西南北の方角の干支が除かれており、これが武雄温泉楼門の天井にあったというわけです。
丸の内 工事資料
 これを辰野氏の「遊び心」か、という報道もありますが、本当のところその意図は分かりません。ただ両者合わせて十二支が揃うというのは、明らかに辰野氏の仕掛けです。

 同様に、日銀本店の屋根の造形も、円という略字の固定化が今後決定的になってくるという読み、後に日銀本店よりも高い建物がどんどん出来てきて屋根の形が人々の目に触れるという建築家としての判断から、将来世間を驚かせてみようという辰野氏の仕掛けという気がします。

 ただ世間が気づくのが遅すぎました。日銀本店(1896年竣工)、東京駅(1914年竣工)、武雄温泉楼門(1915年竣工)が出来てから現在100年以上経過しています。いつも時代の先端を走った辰野博士は草葉の陰で後世の人のカンの悪さにやきもきしていたのではないでしょうか。(笑)

               おまけ
日銀 大阪支店
       日銀大阪支店(旧館) 明治36年(1903年)竣工 設計:辰野金吾 ネオ・ルネッサンス様式
                  画像は日銀大阪支店のHPより
くもじい                日銀大阪支店(旧館)の屋根   グーグルアース

 次回は横浜の空へ飛びます。 次回へ続く。

          主な参考文献
日銀 参考資料

    

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