異形の神田駅周辺、神田駅、鉄道高架橋

2019年 04月18日
駅前に広がる独特の光景
                JR神田駅北口駅前
 会場利用者からときどき聞く話ですが、初めてJR神田駅に降り立った方が驚くのは駅前の光景だといいます。そこには多くの駅にみられるロータリーやタクシー乗り場などなく、いきなりパチンコ店や居酒屋・飲食店街。大東京の玄関口である東京駅からたった一駅しか離れていないのに、なぜか混沌とした街並みと奇妙なレトロ感。
 考えてみるとここは確かにいくつもある山手線や中央線の他の駅と比べるとかなり異なる様相となっています。神田独特の世界が広がります。
神田駅西口付近(多町大通り)中央線のホームより撮影
 これは神田という町が形成されてきた歴史に主な理由があるように思われます。神田の町の原型は江戸初期の町割(区画整理)で作られた職人の町。鍛冶町、鍋町(旧町名)、大工町(旧町名)といった町名が示すように多くの職人が住んでいて、江戸の将軍家の御用達として、長い間江戸幕府を支えていました。町としては古くから完成され、この人家が密集した市街地の骨格が明治、大正、昭和、平成と受け継がれていきます。関東大震災後、震災復興区画整理事業で道路の幅員が広くなったりしてはいますが、町の骨格はそれほど変わってはいません。
 このような市街地の中に鉄道が敷かれ駅ができても、既に形成された町の形を大きく動かすことはできません。雑木林や畑地に出来た郊外の駅には、立派な駅舎、駅前広場ができ、複合型の大型ショッピングモールがあり豪華で便利ですが、昔からある神田の町の場合には再開発といっても限界があります。思い通りの都市計画が簡単にはできないのです。古くから栄えていたが故に近代的な発展ができない。このようなパラドックスを抱えています。
 外神田にあった伊勢丹、今川橋交差点角にあった松屋(松屋呉服店)が大型店舗を造りデパートとして発展していくために神田を出ていかざるを得なかったのも無理からぬ話です。
 上は筆者の撮った写真とほぼ同じアングルで撮られた昭和47年(1972年)の写真です。店舗や広告板は変わりましたが、町の骨格が現在と全く同じであることに驚きます。筆者はちょうどこの頃、神田駅西口商店街でアルバイトをしていました。
神田駅誕生の背景
 去る3月1日が神田駅誕生(大正8年、1919年)から100年目の記念日でした。神田駅誕生の背景についてはかつての当欄の記事(神田と御茶ノ水の間にあった駅)で少し触れています。
 明治23年(1890年)に鉄道網を整備して近代日本の礎を築くため芳川顕正内務大臣(兼東京府知事)より鉄道庁長官に①新橋と上野を結ぶ市内縦貫線の建設と②その中間に両駅を統合する中央停車場の設置という鉄道計画が訓令という形で示されています。新橋・横浜間に日本で初めて鉄道ができて40年近く経った明治の後半に現在の都内にある鉄道路線はほぼ完成していましたが(下の図参照)、訓令で示された部分に鉄道の大空白地帯があったからです。この鉄道空白地帯も江戸からすでに出来上がっていた市街地地区の開発が困難を極めたことの現れでしょう。
 このような鉄道計画に沿って御茶ノ水駅から延伸してきた万世橋駅の開業(1912年、明治45年=大正元年)から2年後の1914年(大正3年)に中央停車場(開業時に東京駅と改称)が完成。その後の大正8年(1919年)3月1日に東京・万世橋の中間駅としての神田駅が完成・開業します。神田駅の開業によって東京駅と万世橋駅が繋がり現在の中央線の形が出来上がります。
 ただ神田駅が完成した時点では、神田から上野方面に向かう市内縦貫線はまだ出来ていず、上野駅・東京駅間移動には乗合馬車、路面電車が使われていたようです。このときの東京市内の鉄道の運行スタイルは、その形状から「の」の字運転と称されました。
 運転区域図は「省線電車史綱要」掲載のもので「KANDAルネッサンス 108号」(神田学会)からの孫引きです。少し加工してあります。

鉄道用地買収と高架橋建設
 明治の中頃から民間の日本鉄道によって上野・秋葉原間の鉄道用地買収が始まっていました。しかし既に市街化していた地域に鉄道を通すには地域住民の反発が大きかったようです。汽車の通過ごとにいくつもある踏切が下り交通が妨害されます。このことを理由に起きた住民の大反対運動によって用地買収がなかなか進まなかったといわれます。そうこうするうちに日清戦争、日露戦争が起き、東京・上野間の縦貫線が完成するには大正末期の1925年(大正14年)まで待たなければなりませんでした。
 住民の反対によって鉄道用地の買収がなかなか進まなかったのは、先に開通した中央線の万世橋・神田間も同様です。住民を納得させて用地買収を進める決め手となったのは、鉄道高架橋の建設でした。高架橋を造り、アーチやラーメン構造の鋼製の橋の下を人や車が通れれば踏切を設ける必要がなくなります。交差する道路の通行スムーズにする工夫です。また高架橋の下から人の行き来が容易になれば両側地域のコミュニティが分断されることを防ぐことができます。この高架橋建設により天災、戦争、住民の反対運動に翻弄されながらも、結局鉄道用地の買収が進み、万世橋・神田間、神田・上野間の鉄道が完成し、今日の鉄道網の輪郭が出来上がります。

複雑怪奇な現在のJR神田駅
 現在のJR神田駅には、大正期にできた中央線(5・6番線)、昭和期にホーム増設等によって整備が進んだ山手線京浜東北線(1・2番線、3・4番線)、平成3年(1991年)に東京・上野間が開通した東北新幹線の線路が走っています。
 圧巻なのはさらに東北新幹線の上に敷設された上野東京ラインです。これは東京駅を経由して東北本線系統の宇都宮線・高崎線・常磐線と東海道線を結ぶ鉄道です。京浜東北線や山手線の混雑緩和として企画されたようです。
 神田駅付近ではもはや新たに線路を造るスペースがありません。そこで神田駅付近の約600メートルでは、上野東京ラインは新幹線の上に更に鉄道を乗せる二重高架橋になりました。この建設は世界的にも例のない前代未聞の工事です。耐震性や急勾配の危険性が指摘され都市住民の犠牲にするなということで反対運動も起きたようですが、いつの間にか出来ていました。
 工事の難題は時間です。新幹線は止められないので、新幹線が稼働していない終電から始発までのわずかな時間を使い、「アリが歩くような」進度の遅い工事を、このために開発された世界トップレベルの最新の機械設備を用いて7年がかりで完成させたようです。完成したのは約4年前の2015年(平成27年)3月。日本人恐るべしです。

神田駅北口交差点付近からみる新幹線・上野東京ラインの二重高架橋
 神田駅北口付近の中央通りには東京メトロ銀座線が走っており、銀座線神田駅とJR神田駅北口が地下道で繋がっています。戦後復興の象徴的存在の丸ノ内線も当初は御茶ノ水から神田駅を通る計画であったようです。しかし住民の反対運動が起きたため、淡路町を経由して東京駅に行くルートに路線変更を余儀なくされました。
 当時の地下鉄建設は地表から掘り進む方式で行われましたが、現在のようなシールド工法であれば住民の反対も少なく丸ノ内線神田駅ができていたかもしれません。ますます路線が増え混沌の極みのような神田駅になっていたでしょう。

神田駅付近中央線の高架橋は煉瓦アーチ橋?
 明治後期にできた御茶ノ水・万世橋間の中央線高架橋は煉瓦積みのアーチ橋のようです。しかし煉瓦は小さいので重量のある鉄道を乗せるアーチ橋を構成するセグメントとしてはどうなのでしょうか。専門的なことは分かりませんが、高架橋の強度を考えると、筆者の素人感覚ではどうも頼りない感じがします。
 ところが万世橋から先の東京駅までは煉瓦積みアーチ橋のように見えながら実はコンクリート橋。下の写真で分かるように、コンクリート製の円弧状ブロックを積んでアーチを造っているようです。表面に貼ってある煉瓦はお化粧です。明治期までの煉瓦アーチ橋や旧万世橋駅舎の辰野式フリークラッシク様式との調和を考えたデザインということでしょうか。
 面白いのは煉瓦が貼ってあるのは中央線の西側部分のみ。東側部分には貼られていません。これは手抜きというというより資金面の問題が大きかったのではないかと思います。(笑)

高架橋西側部分

上の写真の高架橋東側部分
 カオス(混沌)を楽しむという感覚で眺めてみれば、異形の神田駅界隈はとても興味深く面白いところです。

「煉瓦積み職人」(春がきた)
 歌っているのは俳優で歌手のタピオ・ラウタヴァーラさん。オリンピックやり投げのゴールドメダリストでかつてのフィンランドのスーパースター。天が二物も三物も与えることもあります。
 この曲は日本人が思いつかない面白いメロディーです。インストルメンタル(歌無しの演奏曲)もとてもいい。The Sounds 「Muurari」 
 ※雑誌「東京人」2016年10月号、「KANDAルネッサンス 108号」(神田学会)、「神田驛百年」小藤田正夫編著、「図説 駅の歴史」河出書房新社等を参照しました。
 

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