中国で江沢民氏を悼み称賛する声がやまぬワケ、驚異の語学力・教養・人柄Photo:Forrest Anderson/gettyimages

江沢民氏の人柄がわかる思い出の数々

 江沢民元国家主席(元共産党総書記)が11月30日、上海市で死去した。96歳だった。ニュースを聞き、私は「過ぎ去ったあの時代が懐かしい!歌が好きなあの長老のご冥福を祈る」と書いた。すると、意外に多くの人からの反響があった。その死去を悼む声だけではなく、自らの経験したことを実例に挙げながら、その人柄をしのんだケースが多かった。

 投資ビジネス関連の仕事をしている女性は、記憶に残る往時をこう振り返った。

「1983〜84年前後、院生時代の私は、中央官庁の第4機械工業省だった電子工業省に実習に行った。省内のダンスパーティーのために、ピアノやアコーディオンの伴奏に携わった。当時、大臣に当たる部長だった江氏は、自らピアノを弾きに来て、私たちと一緒にワルツを踊った。その様子を撮影された写真は、多くの人が持っており、実家にも置いてある。私は正式に同省に就職して、国際交流の窓口に配属された。江氏が日本語や英語で海外からの訪中団にあいさつするのを何度も見た」

 また、長いこと日本に移住している中国人は、江氏をホテルの自分の客室に泊めた珍しい体験を披露した。

「江氏が上海市長だったとき、私はちょうど上海市農業委員会で働いていた。83年、私は崇明県(今は崇明区)で、ある専門会議を主宰し、江市長を招いて話をしていただいた。会議が終わったとき、台風がやってきて、上海へ帰るフェリーが欠航してしまった。そのため、江市長は上海に帰れなくなった。ホテルが満員になって、江市長を私の部屋に泊めて一夜をともに送った。夜、風呂に入ったとき、彼は日本軍の軍犬にかまれたふくらはぎの上の傷を見せてくれた。当時、国際会議に出て英語で演説もできる江氏は、中国の指導者の中では数少ない才能ある指導者だ」

 その他にも江氏のさまざまな思い出や評価が飛び交った。

「国際制裁を受け、中国が危険な状態に陥ったときに、党の総書記を引き受けた江氏は、国を苦しい局面から脱出させることに成功した新時代の指導者だった」「中国に20年間の平和的発展の時間を確保してくれた指導者」と称賛する声も多かった。

 私は、1993年に『江沢民と朱鎔基』(河出書房新社)、97年に『江沢民と本音で語る』(日本経済新聞社、共訳)などの書籍の出版を企画し、翻訳したことがある。江氏の死去に対して、もう少し踏み込んで語りたいと思う。