布教活動のために無理をしすぎて体がもたず… イエズス会の宣教師「フランシスコ・ザビエル」/死にざま図鑑②

文芸・カルチャー

公開日:2021/4/20

死にざま図鑑』から厳選して全7回連載でお届けします。今回は第2回です。日本の歴史人物の「死にざま」にスポットを当て、その生涯を紹介。残念なラストに終わった、あの人物の大失敗とは? 幸せな最期を迎えたあの人物の処世術とは? 偉人たちの最期の姿を通じて、よりよく生きる術を知る歴史雑学本です。

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死にざま図鑑
『死にざま図鑑』(伊藤賀一:監修、田渕正敏:絵、沖元友佳:文/ポプラ社)

死にざま図鑑

フランシスコ・ザビエル(1506~1552年)

スペイン人のザビエルは戦国時代の日本にやってきたイエズス会の宣教師。イエズス会のアジア方面のリーダーとして、日本に初めてキリスト教を伝えた人物だ。宣教師とは、キリスト教を外国に広めるための活動(布教)をしていた人のこと。現在の鹿児島県に上陸したザビエルは、多くの日本人にキリスト教を知ってもらおうと、見知らぬ土地で熱心に布教しつづけた。

イエズス会:キリスト教のカトリック男子修道会。現在、総本部はヨーロッパのイタリアにある。

死にざま図鑑

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 ザビエルはヨーロッパを旅立ち、まずインドで布教をはじめた。その後、マラッカ(現在のマレーシア)でヤジロウという日本人に出会ったことがきっかけで、日本での布教を決意する。そして、日本を訪れたザビエルは、現在の鹿児島県や山口県、大分県などを中心に布教活動をしていった。

 じつはザビエルは、日本には2年ほどしかいなかった。その間に増えた信者は約千人。ザビエルの布教活動は思ったとおりにはいかなかったんだ。その原因を、日本の文化をよくわかってなかったからだと考えたザビエルは、「日本は中国の影響が強いみたいだから、まず中国で布教を成功させよう!」と中国に旅立った。

 ところが、中国本土に入る前に肺炎にかかり、この世を去ってしまう。ヨーロッパを旅立ってからのザビエルは、長い船旅の連続だった。体は限界だったのに、布教活動のために無理をしすぎたのだろう。

ザビエルのざっくり年表

1506年 ナバラ王国(現在のスペイン・ナバラ州)に生まれる。
1534年 イエズス会を創立する。
1537年 ローマでローマ教皇に会う。
1540年 イエズス会が教皇より認可される。インドへの布教が決まる。
1541年 ポルトガル、リスボンの港を出航。
1547年 マラッカで、日本人のヤジロウと出会う。
1549年 鹿児島に到着。日本でキリスト教の布教をはじめる。
1550年 山口に滞在・布教して、京都に向かう。
1551年 一度インドに戻ろうと日本から出国する。
1552年 マカオ沖・上川島で病死する。

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<第3回に続く>