イェジー・スコリモフスキは数々の賞を受賞している。『Bariera障壁(バリエラ)』は1966年ベルガモ国際映画祭グランプリ受賞。『Le Départ/Start出発』は1967年ベルリン国際映画祭金熊賞受賞。『Moonlightning/Fuchaムーンライティング』は1982年カンヌ国際映画祭脚本賞受賞。『Ręce do góry手を挙げろ!』は検閲により長い間上映禁止となっていたが、1981年グダンスク開催のポーランド長編映画祭でジャーナリスト賞を受賞。2003年には「ポーランドおよび国外移住先で、世界的規模の映画を製作するポーランド人監督としての独立した姿勢、またポーランドとの永続的関係」が評価されイーグル賞を受賞。2009年『Cztery noce z Annąアンナと過ごした4日間』で再びイーグル賞を受賞。2010年ヴィンセント・ギャロVincent Gallo主演『Essential Killingエッセンシャル・キリング』は第67回ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。
1960年代半ばポーランド映画に新しい潮流が出てきた。これを(やや適当で機械的な命名かもしれないが)「第三のポーランド映画」と呼ぶ。戦後の映画は、まず戦前の映画様式を残す作品群から始まった。次に、第二次世界大戦に参加した人々が戦争体験を清算しようとした「ポーランド派」が続く。この後に登場したのが、戦後に育った若い作家たちだ。彼らは新しい戦後の現実を生き、不安定な時代と呼ばれた1960年代に大人になった世代である。同時代のポーランド人の姿を最初に捉えたのはドキュメンタリー映画作家だった。これに続いて、同じテーマがフィクション映画にも現れるようになる。イェジー・プワジェフスキJerzy Płażewskiはこう書いている。
「この第三のポーランド映画は、自らについての真実を探している。自ら、というのはつまり、社会主義的安定の時代、まともな生活をしていこうとすれば道徳的問題が生まれ、身の回りの現実とその倫理規範に対する態度を決める必要性に迫られた時代である。」(『Historia filmu dla każdegoみんなのための映画史』1977年,ワルシャワ)
イェジー・スコリモフスキの初期作品と他の古典映画についてはこちら(英語)
イェジー・スコリモフスキはポーランド映画のこの世代の第一人者と言っていい。しかし、スコリモフスキの初期作品に登場する主人公は、一部の批評家からは受け入れられなかった。というのも、彼らは当局の意向に基づき、社会的な観点から捉えたテーマを期待しており、個人主義的なものは何であれ不適切だとみなしたからだ。スコリモフスキの主人公は、コンラド・エベルハルトKonrad Eberhardtの言葉を借りれば、「成熟を拒否し」「型にはまることから逃げている」。
「スコリモフスキ映画の主人公についてコンラド・エベルハルトはこう書いている。『かなりの天の邪鬼である。そして自分の個性や顔を救えるのかという恐れ、目的を最優先とする集団の中に溶けて消えてしまう恐怖を抱いている。矛盾だらけの行動はここから来ている。一方には熱望、一方には怠惰。何かすごいことをやってやろうという憧れと、無駄にした大学時代、無為に過ごした時間、逃した機会。』」(Kino 13/1967)
幸いにも今日、当時のスコリモフスキ作品について書く際に、検閲の心配をしなくてもいい。トマシュ・ヨプキェヴィチTomasz Jopkiewiczはこう書いている。「当時、一部の批評家が示した疑いは理解することができる。それは、服従を装いつつ、明らかに社会のルールから逃れようとする試みだったのだから。最も重要なことは、不完全な「わたし」を救うこと、自由を束縛する集団性の優位を、静かにしかし頑固に拒否することだった。」(Kino 7-8/ 2004)
同じ記事にこうも書いている。
「逃げること、迷うこと、探し求めること。顔と仮面を次々に取り替えること。自分の形を探すこと。同時に、自分であるものが永久に失われ、奪われてしまうことへの恐怖。諦めない。間違う権利、ある程度は安定している拠り所を見つけては、またなくす権利。これが、スコリモフスキ映画の主人公を苦しめているジレンマだ。目新しいものではない。60年代の映画には割とよく見られたものだ。しかし、私的なスタイルを使ったスコリモフスキがこれを一番よく捉えた。独特のものに注意を向け、自伝と映画の主人公の境界線を曖昧にし、叙情的で、ひどく自嘲的な日記を作った。」
「日記」という言葉はここにぴったりだ。スコリモフスキの映画の筋は、かなりの部分が自伝的であり、一人で脚本家と監督を兼ね、主人公と一体化し、アンジェイ・レシュチツという人物を第一作、第二作の中に作り出したのである。しかし第三作の『障壁(バリエラ)』では、当局の強い要求により、このやり方を変えなければならなかった。
スコリモフスキの主人公は、意地悪く、時に愛を込めて、「snuj(遊民、無為徒食の輩)」と呼ばれ、ゴダール映画の主人公と比較されてきた。語りの方法の類似も指摘されている。スコリモフスキを第一人者とする「第三のポーランド映画」は、時にフランス映画にならって、「ポーランド・ヌーヴェルヴァーグ」と称されることもあった。
「1966年。ベルガモ祭。アヴァンギャルドとの結びつきを無難に強調したいと考えていたこの誇り高き映画祭にとって、イェジー・スコリモフスキの『障壁(バリエラ)』以上にふさわしいグランプリ候補はなかった。この映画は、当時既によく知られていた「新しい映画[ヌーヴェルヴァーグ]」の精神を大いに宿していた。この傾向の特徴を言い表すのは容易ではない。ざっくり言えば、ジャン=リュック・ゴダールの作品がまさにそれである。観察された現実が、作者自身の「偏りのある」発言と混じり合う。自分について、世界について、映画について。」とアレクサンデル・ヤツキェヴィチAleksander Jackiewiczは書いている。(『Moja filmoteka. Kino polskie私のフィルム・アーカイヴ。ポーランド映画』,ワルシャワ,1983)
ヤツキェヴィチは、スコリモフスキ作品がゴダール作品同様「現実世界に忠実である」ことを高く評価した。しかし強調しているのは、スコリモフスキがこれを完全に自分の方法で達成したことだ。他の批評家たちもスコリモフスキ作品をフランス人監督作品と比較して分析している。
「『ヌーヴェルヴァーグ』のスタイルとスコリモフスキを結びつけるものは、日常を見つめる、厳しい、ドキュメンタリーのような眼差しである。日々のごくありふれた瞬間に、特別なものや詩を見出し、平凡な道具や状況に、まだ感じたことのない雰囲気を与える。」(ジグムント・カウジンスキZygmunt Kałużyński,「Politykaポリティカ(政治)」51/1965)
『Rysopis身分証明書』、『Walkower不戦勝』に続く第三作『Bariera障壁(バリエラ)』は、依然として同じ傾向にあったが、既にある程度、現実を写実する撮影法から象徴言語への移行が見られる。また、私的な要素が少ないのは、監督本人が主人公を演じていないからかもしれない。これは政治的要因による決定であった。
次作の『Ręce do góry手を挙げろ!』でスコリモフスキはさらに大きな問題に直面することになった。作品内の若いZMP(共産党傘下の青年組織)世代の描き方が当局の不興を買ったのだ。問題となったシーンは、学生たちがスターリンの巨大なポスターを貼っているのだが、手違いで、目が四つになってしまう。
1967年春に完成した『手を挙げろ!』は検閲によって長い間上映禁止となった。ようやく日の目を見たのは1981年、皮肉にも戒厳令が敷かれる直前であった。この映画で経験した問題が直接の要因となり、スコリモフスキは国外に移住する。何年も後で監督はこう述べている。
「『手を挙げろ!』には]こりごりなんだよ、人生を滅茶苦茶にされたからね。(中略)もし『手を挙げろ!』がなければ、きっと私はまだヌーヴェルヴァーグの作家だったろう。必要に迫られて道を変えるほかなかったんだ。」(ヨアンナ・ポゴジェルスカJoanna Pogorzelskaによるインタビュー,「Gazeta Wyborczaガゼタ・ヴィボルチャ」新聞,2001.02.08)
国外に移住して最初の数年に撮られた二本の映画『Le Départ/Start出発』と『Deep End/Na samym dnie早春』は、監督の今後の方向性を定めたように思われた。映画評論家のトマシュ・ヨプキェヴィチTomasz Jopkiewiczは『早春』について、前述の記事でこう述べている。「スコリモフスキ作品の中で最も規律を遵守した作品なのではないか。しかし同時に自由な調子もある」。しかし続く作品では、監督の探求はこれほど実を結ばなかった。ポーランドで考慮しなければならなかった政治の鞭からは自由になったが、西側では別の障壁に突き当たっていた。トマシュ・ヨプキェヴィチによれば、それはこれまで私的な映画で真価を発揮してきた監督にとって、映画産業のルールを考慮しなければならないことだった。
「最高傑作は、欠点を差し引いても、『Moonlightingムーンライティング』(1982),『Success Is the Best Revenge成功は最高の復讐』(1984)などの最も個人的な作品である。これらの作品は、創作初期からのあの私的な語りと経験に、別の形で戻ろうとした試みである。」とヨプキェヴィチは書いている。イェジー・スコリモフスキは多くのインタビューで自分の作品のことを痛烈に批判しているが、特にいくつかの作品についてはかなりの嫌悪感を、時に大げさだと思われるほどに示している。ヴィトルド・ゴンブロヴィチWitold Gombrowiczの小説『Ferdydurkeフェルディドゥルケ』を映画化した『30 Door Key/Ferdydurke』がそれである。この映画化向きとは言い難い作家の、別の作品と格闘したヤン・ヤコブ・コルスキJan Jakub Kolskiの場合には、映画として成立させるため原作からはかけ離れてしまっていることを見れば、よりゴンブロヴィチの本に忠実なスコリモフスキの映画が失敗だとは一概に言えまい。しかし『30 Door Key/Ferdydurke』(1991)を完全な駄作だとみなしたスコリモフスキは、この映画の後、映画監督として17年の沈黙の期間に入った。この期間には他の監督の映画に俳優として出演した。