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183  隠れ大銀杏の樹齢や いかに [文芸(短歌、俳句 ほか)]

            随想コラム:「目を光らせて」 NO.183

               隠れ大銀杏の樹齢やいかに
 

                          アオウ ヒコ

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                                               こそぎ横倒しになった大銀杏(鎌倉鶴岡八幡宮)

     またしても雪

 21日のことだったか。随想コラム更新のお知らせの中に、やや予報じみて「今日あたり東京は雪。春を呼ぶ名残の雪になる」とした。降らなければハズレだから、内心穏やかではなかったが、夜になって東京には雪が降った。狭山も美しく雪化粧した朝を迎えた。

 翌日九州の君が返事をくれて「予報どおり、今朝の関東地方は雪景色、寒中お見舞い申しあげます。」と雪占いが的中したことを褒めてくれ、関東の寒さを気遣ってくれた。

 関東や九州に住む多くの人が、これで今年の冬の雪は終り、名残の雪だ、もう降ることはないと思ったことであろう。

 冬将軍も、将軍と名が付くからには、根っから葉っからの豪儀の男だ、そんなにも女々しく名残の雪を何度も繰り返えすはずがない。ここは後に続く春の女神の顔を立て、豪儀に別れを告げて、自らは雪橇を蹴立て、吹雪とともに姿を消すはずだった。

 だが、案に相違して、3月に入っても春の歩みは遅々たるものだった。天候不順のひと言に尽きた。歩みの鈍い冬将軍が居座るものだから、そんなに後にいるはずがない春の女神が一向に姿を見せないことだった。3日~4日は曇り、雨模様で気温上がらずが続いた。

 5日だけは春の到来を思わせる好天となり、気温が20度を超した。半袖姿の人が街に溢れたという新聞記事が載った。

 だが次の6日は一転しての雨、気温が急低下、太陽の姿見えずの一日だった。そしてこの日は啓蟄の日に当っていた。

 人間様もすっかり騙されたことだったが、冬眠中の虫君たちも、5日の温かさにどっと誘い出されたようだ。暦の上で啓蟄が来たからには、そろそろいいか、おれが一番乗りだぞ、と粋がって這い出した虫君のリーダだったが、すぐさま外界がまだその折にあらずと気がついたようだ。

 長い冬の鬱屈を晴らすように、スイスイと動くべき6本の脚の関節が旨く動かないのだ。それでも、折角出たのだからと勢いつけて歩いては見たが、この6日は雨となり、光の矢一本も享受できず、急激な気温低下による寒さはどっと押し寄せて、のろのろのギクシャク歩きを余儀なくされ、(これはいかん、まだ早いわい)と這這の体で慌てて元の巣穴に戻ったことだった。

 このように、今年の3月は啓蟄(36日)が過ぎたというのに暖かさが戻らず、寒波が居座った。ヨーロッパや米国でも寒波が被い、積雪が数㍍にも及んだことだ伝えられた。
 どうなっているのかの声に押されて、7、気象庁は(ここ1週間は雨がちで気温低め、雪も混じる。)という週間天気予報を出した。


 この頃の天気図では、日本列島の南方に横に長々と水平に伸びる前線が横たわっていた。気象庁は、これがほぼ一週間かけて日本列島を北上する、と見ていたようであった。だが、どのくらいのスピードで横に伸びた前線を収斂させ、巻き込んで台風並みの低気圧に急成長するかについては確たる自信が持てなかったようであった。
 

     チリから寄せ来る津波の伝播
 また、227日にはチリ国をマグニチュード8.8の巨大地震が襲い、現地で甚大な被害をもたらしていた。一方、遠く海を隔てた日本では、翌28日以降、震源地チリの海溝から伝播してくる津波の観測と対策に忙殺されることになる。

 気象庁では、乏しいながら海中に設置した複数の津波センサーからの情報やハワイなどからの津波データを元に、日本列島各地への津波到達時間を推定し、これに基づく警報(大津波警報、津波警報)の発令から解除までの対策に追われることになる。

 228 チリ巨大地震による大津波警報・同 津波警報の発令
 3月1日  チリ巨大地震による大津波警報・同 津波警報の解除

kyoboku20.jpg 気象庁はチリ巨大地震による津波予想値は最大3mとして大津波警報を出し、沿岸住民に高所への避難を呼びかけた。

だが、初期津波の高さが1020センチに留まったこともあって、これはたいしたことはない、避難するまでもないとして、住民の避難は対象者全体の3.8%に過ぎなかったと後日(3月8日)発表した。


 しかし、実際には二次、三次のチリ津波が日本列島に押し寄せていた。1mを越したところもあり、沿岸の防潮堤防を越えて津波が浸入したケースもあったことである。

 今の日本人には二次、三次の津波の怖ろしさと襲来への対処に関して常識に欠けるとして、津波の怖さを知らぬ安易な判断で避難しなかったとして問題がある、とされたことだった。


 なにはともあれ、人的被害が皆無であったことは幸いなことであった。一連の津波観測情報の判断とTVを通じての提供について、気象庁はよくやった、とする評価がもっぱらであったにかかわらず、気象庁は「過大な津波予測値を出したことをお詫びしたい」という声明を出した。

 なにを怖がっているのかである。誰が指令したかは知らないが、なにもこのようなゴメンナサイを言うには及ばないことである。小さい津波予測数値を発表していて、実際にはそれを上回る大津波が到達したことを考えれば、それこそ大問題になるではないか。

 この事件を機に、外洋からの津波の観測態勢の不備、不十分が明らかになったことで、今後の津波センサー増設予算付けに関心を高める絶好の機会だとでも思ったのか、と首を捻ったことである。いずれにしろ、世紀の巨大地震に伴う、巨大津波の伝播の問題であるだけに、気象庁の主要スタッフはチリ津波の監視に従事せざるを得なかったようだ。

 3月9日~10にかけて急速に発達して速度を増し、日本列島を縦断すべく、するすると忍び寄っていた冬の巨大低気圧。これへの監視と通報がややもすると、疎かになっていたのではないかと思わざるを得ない。


    冬将軍の置き土産


 3910にかけて、猛烈に発達した低気圧が「冬の嵐」となって日本列島を縦断する形で駆け抜けた。風が強く、吹雪まじりの降雪が横殴りに吹き荒れ、 今回の大雪と強風の影響で交通機関も大きく乱れた。空の便では90便以上が欠航し、各地で家屋にも被害が出て立ち木が倒れ道路や鉄道を不通にした。

 その中で最も注目されたのが鎌倉市の鶴岡八幡宮神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目の境内に立つ銀杏の大木が根っこもあらわに横倒しになったことだった。


 kyoboku4_1.jpgそれは310日の早朝、4:30頃のことだった。

 鶴岡八幡宮によると、同4時15分ごろから、詰め所で警備員が5分おきぐらいに「ドンドン」という音を聞いていた。
 同40分ごろ、雷が落ちるような大きな音がしたため外に出たところ、大石段そばの大イチョウが根元から南側に倒れていた。

 鎌倉市消防本部によると、当時は雨はあがっていたが、平均7~8メートルの北風が吹いていた。

大イチョウは根元部分が空洞のようになっていた。八幡宮によると、これまで台風で枝折れしたことなどがあるだけで大きな被害はなかった。今年は2月に雨が多く地盤が緩んでいた。

                    
 

鎌倉市の鶴岡八幡宮を訪れたことがある人ならば、すぐに記憶を呼び覚ますことであろうか。入口の大鳥居を潜ると、主殿ともいうべき本宮(上宮)へ真っ直ぐに至る一本道の参道が延びる。その左右には広い源平池、突き当りには「舞殿」(静御前が義経を偲んで舞を舞った若宮回廊跡に建立)がある。

 なおも真っ直ぐな参詣道は続くが、舞殿を越して見上げるように正面に見えるのが本宮(上宮)である。この本宮に達する前に通らねばならないのが「大石段」である。この「大石段」の左側面に大銀杏が植えられている(植えられていたと言うべきか)。

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特に秋季の黄葉期には青空を埋め尽くすように黄の彩りで華やかな賑わいを見せていたものである。

 八幡宮の神木でもある、この銀杏の大樹(高さ30㍍、幹の周囲約7㍍)が折からの北風に吹かれて根こそぎ倒れた。

(うまい具合にというか、幸いにというか)大石段の前左側の境内更地へ横倒しになり、その先端は大石段から少し離れて建つ「舞殿」には届かなかった。

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 根こそぎ倒壊したものの、早朝のこととて参詣人もなく、幸い大銀杏樹倒壊による死傷者も、寺社の施設にも被害はなしであった。

 それを見て「お見事に南側にきれいにお倒れいただいて」と、神木の最後を称揚する言葉も参詣人の口の端に上ったことであろう。

 宮司は「ご神木であるから、輪切りにするなどは忍びない」などと言っていたようだが、これも、舞殿が無傷で済んだことでほっとしていたからでもあろうか。

八幡宮は1180年に源 頼朝によって造営された折、本宮(上宮)の敷地や大石段を作るために、土を大きく盛り上げて台地のようにしたようであるから、銀杏の苗木か若木を植樹した場所は平地というよりも台地の斜面に近い場所、しかも大石段の傍であった。


 植樹された銀杏の苗木は、以後永年にわたって、根は張り続けたことであろう。
 だが、全くの平地に植えられた樹木の根張りとは違い、少々いびつな形にならざるを得なかったのであろうか。(南側に延びた根は長く太く、北側に延びた根は、比較的短く細く)であったのか。


 神木の大銀杏が倒木したこの三月はまだ冬であった。葉はことごとく落ちて枝ばかりの冬眠期である。春夏の水揚げ最盛期とは違い、根の張りにも強靭さが失われていたのかもしれない。そこへ二月の大雨が続き、根の周りの盛地は湿潤していたと言われる。そこに強烈な冬の名残の爆弾低気圧が急北上し、チリ津波にもっぱらの関心が向く間に関東を襲い、冬の嵐が雪を伴う強烈な北風となって、台風並みの突き押しを重ねたとすればどうであろう。

 鎌倉だけでなく、仙台などでも根こそぎやられた街路樹が報じられたが、これらは若木であるにもかかわらず倒木となったようである。大樹の場合では、根元に洞を抱えていたケースが多く、これがあると強風にはことのほか抵抗力が弱くなるように見受けられる。

 鎌倉市が誇る鶴岡八幡宮の神木、大銀杏も何度か、かしいで悲鳴を上げたという。だが、ついには支えきれずにどうと倒れた。真っ直ぐ南側へ、斜面の下りの方向へ、殆んど傍に並ぶ大石段と並行して、力学的にもなんら違和感なしに、あるべき方向へお倒れなさったのだ。

 鶴岡八幡宮切っての神木、秋季の黄葉の頃の華やかな美しさは特別で、多くの参詣人に親しまれた大樹であった。その正確な樹齢は新聞によってまちまちであるが、1000年と切り上げるもの、800年余と含みを残すものとまちまちである。ただ、いずれも800年~1000年という範疇には含まれていた。

 10日の夕刊による速報では;
神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮。根元から折れて横たわるのは、樹齢およそ1000年の「大銀杏」です。鎌倉3代将軍源実朝を暗殺した公暁が隠れて待ち伏せたとの言い伝えから「隠れ銀杏」とよばれたこの大木も、9日の強風で倒れたものとみられています。1016:35 と、これは1000年説だ。

 鶴岡八幡宮の大イチョウ倒れる
大イチョウは1219年、鎌倉幕府の3代目将軍源実朝が八幡宮の参拝を終えたところ、この木に隠れていた公暁(くぎょう)が暗殺したとされる伝説から「隠れ銀杏(いちょう)」とも呼ばれる。800~1千年余りの樹齢とみられ、鎌倉時代に体を隠せる大樹なら現在の木は2代目という説もある。  と、これは8001000年説だ。

 神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮。根元から折れて横たわるのは、樹齢およそ1000年の「大銀杏」です。鎌倉3代将軍源実朝を暗殺した公暁が隠れて待ち伏せたとの言い伝えから「隠れ銀杏」とよばれたこの大木も、9日の強風で倒れたものとみられています。1016:35 と、これは1000年説である。

                      
 これらの報道によると、このご神木は千年もの間、鎌倉八幡宮の大石段の傍で成長を続け、鎌倉幕府の創始者 源頼朝(1199)の跡目争いに鎬を削った源氏一門の武士たちの興亡をつぶさに見てきた大銀杏だという。
 

 某国某所の巨大な銀杏木が台風なみの冬の低気圧によって根こそぎ倒れたという記事なら、ああそうか、よくあることとして、そのままに打ち捨てたことであろう。だが、鎌倉八幡宮の大銀杏の場合はそうはいかない。目を光らし、耳を欹てるに十分な記事であったからである。

     大銀杏の樹齢

 和歌の達人としていまも尊崇される源実朝は1219127日、右大臣拝賀式当日、昨夜来の雪で真っ白に化粧した鶴岡八幡宮石段の砌で、別当公暁によって襲われ、28年の短い生涯を閉じることになる。北條政子により八幡宮の別当に任じられていた公暁がこの八幡宮の大石段横、この銀杏の木蔭にひそんで待ち受けたとある。

 そのことが記録にあるだけに、この銀杏の樹齢が何年であるのか、の推測がいくつもなされて来たようである。

 頼朝による鶴岡八幡宮の本格的な造営が1180年に行われたとあるから、この年に銀杏の苗木(もしくは若木)が大石段の横に植樹されたとし、このときを以って樹齢一年と数えればことは簡単である。
20101180830 樹齢は830年である。だが、この年に銀杏の種まきをここで行ったわけではあるまい、どこかで種を播き、芽を出させ、苗木にするか、も少し成長させて若木にして、これを移植したとも考えられる。

 とすると、この播種から苗木(または若木)までに要した年月を加えてやらないと、正確な樹齢は出ない、ということになる。


 この幼苗期を何年と見るかであるが、永くとも5年か10年であろうか。とすると、83010840 年となる。だが、この5年~10年をどう数えるか、となると、異論続出で話がまとまらないだろう。

 そこで、現地への移植前の年月は不問として、数えることにすれば、今年2010年3月に鎌倉市鶴岡八幡宮で倒れた大銀杏の樹齢は830となる。これでようやくすっきりすることになる。

 実朝が公暁に襲われ、首を掻かれた1219年は八幡宮の造営(1180)から39年後のことである。苗木までの期間はカウントせずに経過した時間が39年間ある。39年もあれば、銀杏樹は幹周りも太くなって待ち伏せする人影数人くらいは容易に隠しおおせたことであろう。

 頼朝もまさか、将来、この木の陰にわが息子を暗殺する男たちがひそみ隠れる場所になるなどとは考えもしなかったことであろう。

     実朝忌
 ちなみに源実朝が亡くなった年から、今年で791年である。いまでも、短歌を専らにする人々の間で「実朝忌」が行われている。

「実朝忌」:源実朝の忌日。陰暦127日。鎌倉の寿福寺に墓があり、毎年2月27日に修(きちんと行われる)される。金槐忌、鎌倉右大臣忌とも。(広辞苑)

 源頼朝亡き後の源氏一門の動きを見ると、いずれも同じ有象無象の動きで、権力を狙うあまりの仲間同士の誅しあい、果ては没落である。日本だけではない、鎌倉時代の公暁一味の有様はローマのシーザーの誅殺に狂奔するブルータスを初めとする議員たちの姿を髣髴とさせる

 神社の別当職を貰った公暁(実朝の甥)は頭も剃らず、毛髪を生やしたままの粗暴な男として知られる。その別当公暁による暴力で、あのたぐい稀なき短歌の才能がわずか28年の短い生涯で閉じられ、永遠に失われたことがなんとしても惜しい。残念の極みである。

 つい先だって、小HP「目を光らせて」NO.181で実朝の歌を紹介したばかりであった。この時は、時の流れのあわれを精緻なまでに歌い上げた才能を愛で、和歌の典型としての引用であった。

   萩の花くれぐれまでも 有りつるが 
         月いでて見るに なきがはかなき
   源 実朝 (金槐集)

 鶴岡八幡宮の案内書の中で、実朝が権謀渦巻く時勢のなかに、秘かにわが身を案ずる歌を詠んでいることが判った。次の和歌である。

   出でていなば 主なき宿となりぬとも
              軒端の梅よ 春を忘るな  
源 実朝

 鶴岡八幡宮の案内には、「自らの行く末を予感しながらも悲劇の路を歩まねばならなかった実朝公の孤独な想いをこの一首に認(したた)めています。」と書かれているが、誠に同感することである。

     ひこばえ(孫生え)なるか

 天下取りを目指す武士たちの陰謀術策と源氏一家の内紛が引き起こす興亡。それらをめぐる鎌倉の歴史をくまなく鶴岡八幡宮の高みからの見続けた大銀杏。大木なのに、なぜ今倒れるの、ととりわけ鎌倉市民に惜しまれたようだ。

 倒れてみて、分かったというわけでもないようだが、根元付近に大きな洞(うろ)が広がっていて、これが因で、強風に抵抗することができなかったのだろう、とも新聞は伝えた。

 倒木した県指定天然記念物「大銀杏」について、八幡宮宮司は「今の大銀杏を残す方向で検討したい」とし、大銀杏の根元部分を付近に移し替えて根が張るのを待つ。折れた根元から新芽が生えることも期待したい、とした。

 また、八幡宮は2004年の台風の際と、倒木があったこの10日にも、それぞれ大銀杏の挿し木を計15本、敷地内で保持しており、これら苗木の活用も検討したいとしている。

それらの善後策を講じていることだが、それはそれとして、結局は大銀杏の根元の上部数㍍部分で幹を切断、これをクレーンで吊り上げて穴を掘った隣接地へと移し、根付かせることにした。


 生き物であることから、この決定は迅速に行われ、工事現場はなぜかシートで遮蔽されて314日にはつつがなくこの移植は完了した。

「神木への配慮から周囲を幕で覆った」とのことであるが、参拝客らは作業を遠巻きに見守り、大銀杏の再生をひたすら願っていた、とある。

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 また、八幡宮の依頼で銀杏樹の再生を指導している東京農大浜野教授(造園樹木学)は倒れた幹部分を移植した場合の再生の可能性を問われ、「昨日の判断では90%は戻る」との見通しを示した、という。頼もしいことである。

 さて、倒木となったご神木を当初は切断などとんでもない、と反対していた宮司も現実の善後策が進むにつれて、それは受け入れられぬと悟ったのか、何も言及しなくなり、いつのまにか、撤回したようだった。 その後、現実には根元上部で水平に切断され、根の部分は掘った穴に移植されたことである。

 ここは本当の樹齢を知るチャンスである。輪切りにした年輪板を作って社殿中央に飾らねばなるまい。天眼鏡でもって、年輪の数を正確に勘定しなければなるまい。その上で、また、年輪板をいくつも作って「実朝銀杏木年輪板」とでも名づけて法外な値で売り出すチャンスでもある。

 ころんでもただでは起きぬ八幡宮、などと揶揄されるかもしれないが、別に気にすることはない。
ひこばえ再生のために使う金にする、と言い張れば済むことである。千載一遇の好機来たれりである。宮司よ、商機逃すべからずであろうか。

                               
  今日、3月15日は忙しい日だった。締め切りが迫っているのに、次々に関連事項が発生して、原稿が出来上がらない。しかも割愛すべき個所が次々に出てくる。

 思えば3月上旬は事件の連続で、関係者も、そうでなくても忙しく、またハラハラした思いをなさったにちがいない。
 

 今朝15日の朝日新聞の俳壇をひらくと、次の俳句が目に飛び込んだ。

      海渡り 来たる津波や 実朝忌  (下田市 森本幸平 氏)

 なんだ、忙しい思いでせわしく書いてきた内容のほとんどを、この俳句一つが表しているではないか、との大嘆きであった。

 実朝の和歌はもちろん素晴らしいが、「
ここんところが、俳句のよかところですね、俳句バンザイ!ですよ」と、俳句を良くする東京の友人、君に伝えようと思っている。                      (2010.3.15)

(注)文中、緑色表示の個所は外部資料からの引用です。
    写真は、朝日新聞、ほかweb媒体からの引用です。


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   秋の大銀杏

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随想コラム 「目を光らせて」 NO.183
            隠れ大銀杏の樹齢やいかに への おたより

1. 近況                                                         

 何時も多くの写真を入れたお便り有難う御座います。
八幡宮の大銀杏の写真見事ですね。新聞では倒れたことは知っておりましたが、今年は篠山も今年
は寒く、6日には久し振りに雪が降りました。天気の良い日には、家内と近くを散歩しております。
それではお元気で。     
(2010.3.16  S・しげお

2.RE隠れ大銀杏樹齢やいかに
 所沢のHです。何時も楽しく読ませていただいています。

やっと春の兆しを感じられるようになってきましたが、私にとっては何時もより遅い花粉症の季節
となり苦戦しています。でもボツボツゴルフ如何でしょうか。

  今月9日、久しぶりにさがみ野に行きましたが雪の中で悪戦苦闘してきました。上武組も今のところ
休眠状態ですが、そろそろ声がかかると思います。是非ご一緒しましょう。

追って連絡させて戴きます。  (2010.3.16  H・ただひこ

3.RE隠れ大銀杏樹齢やいかに

先日来、千葉の白浜に浩然の気を養うべく行ってきましたが期待外れでした。その上食べ物も不味
く閉口しました。魚も獲れたてと云うものの、東京のほうが美味い。改めて一極集中の弊害が食べ
物まで及んでいることを実感しました。


昨日は久しぶりにゴルフに出かけました。生木を裂くとはこのこと、大きい樹木は先日の大雪で倒
れ見る影もない。
約800年前の出来事を直接見聞した「かくれ銀杏」も先日の大雪に敵わず倒れたとのこと、感無量です。 

 当時、鎌倉の文化水準は当然低かった。頼朝の側近で名声を誇った東国武士団でも、直接意見書を
提出できず、すべて公事奉公人(官僚)に依頼した。侍所の大将和田義盛ですら政治上の意見具申
は、すべて大江広元の手を煩わした。従って誹謗中傷が多い時代だった。何か現在の政治に通じる
ものがある。


梶原景時、上総介広常、和田義盛、比企能員、三浦義村等々はこの暗闘と陰謀の時代に短く儚く倒
れて行った。
北条義時たちは独裁者頼朝の急死により騒然とした幕府を、未亡人政子とともに幕府を盛り立て、
北条執権政治を確立していた。


こんな中、
ご報告の様に頭巾をかぶった法師の公暁は大銀杏に身を隠し、衣を引きずるように下り
てくる実朝を「親の敵」の掛け声とともに一太刀あびせて殺害した。色々と経緯があるもののここ
では省くことにする。


幕府の実権を密かに狙っていた三浦義村は実朝擁立を考えていた。この計画を義時が途中で知り、
義村は急きょ計画を変更して直ちに実朝の殺人犯公暁を殺し、身の安全を謀った。
結果として2重暗殺事件となり遂に源氏は途絶えた。

永井路子の歴史小説?炎環?でも同じように解釈されている。

吾妻鏡を読んだことはないが、将軍擁立を巡っての争いは現在でも珍しいものではない。

  天気予報に一段の工夫あるべし。

 
次に地球温暖化のせいか、地震、旱魃、豪雨、気温の異常、等々の変化率が大きく老人に厳しい
気候が続いている。

それにしてもNHK
をはじめ民放の天気予報をもう少し工夫して、視聴者によりよく分かりやすく発
表してもらいたい。

現在は、冬季の全国天気概況は西から東へと移り、それなりに解説している。少々不満があるがよ
しとしよう。


1.週間予報について

全国の天気概況表は札幌から順に南西に下ってくる。これは可笑しい。天気の変化は西から変化す
るので、是非沖縄九州からの表示にしてもらいたい。こうすれば、天気の移り変わりが動的に捉え
られ理解し易くなる、かつ視覚的にも科学的な表を視聴者に提供できる。福岡の人は下関や松山の
天気に興味ない。先行指標となる屋久島、鹿児島、福江、厳原の天気を早く知りたい筈だ。生活に
密着した予報をお願したい。現在は逆さまの天気予報概況で天気の移り変わりが理解しずらい。


2.TVの観測地点のプロットを再検討する

先ず、気象的に似た都市の重複は避け、天候予知に大きく関係する地点を選定してもらいたい。
例えば概況で宇都宮と前橋はどちらか1点でよい。関東地方の人々にとっては御前崎を逆に追加し
て頂く方がよい。


3.低気圧が発達しているのか、衰退しているか、前線の動きはどうか、スピード等が素人にも分
かりやすい概況報告が欲しい。台風、爆弾低気圧の襲来時には必要な観測点に風向、風力を臨時に
入れてもらいたい。漁船、船舶、レジャー舟は助かる。


4.冬季と夏季の日本地図を変える

冬季の日本地図は現状でよいが、夏季の日本地図は気象学的地図を作製していただく。この地図は
日本列島の南北が太く描かれている。夏季はご存じのように南北の両気団の戦いであり、前線の微
妙な位置で天気はガラッと変わる。この前線の尻尾の振り方で九州、四国は大洪水となる。また太
い日本列島地図は視聴者にとって実に便利になる。夏季特有の地域性低気圧(積乱雲など)も捕捉
でき予報もできる。


5.東京地方の予報は環八内と環八外の天気と分けて発表して貰いたい。内と外の距離は近いが天
気は全然違う。


スピード、進路、発達しているか、衰退しているか、気温、湿度、風向、寒気団か温暖気団とどち
らが強くなっているか、前線はどちらに移動しているか等々が素人にも十分わかるようなビジブル
な表を可能な限り作成して貰いたい。このことによって気象庁の作業は何も増えない、持っている
データーを表示するだけである。解説者の負担も増えない。ただ視聴者は天気予報に興味を持つこ
とになり、結果として気象災害が0に近づく。


*尖閣諸島、竹島付近、北方4島地域の海洋気象予報を定期的に発表して貰いたい。自国領土と云
う前に漁船、その他の船舶のため人道的見地からこの地方の天気予報を日本が率先して取り扱うの
も意義がある。 以上

              (2010.3.20   U・てつぞう



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