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ダンプ辻コラム

僕が初めて家に招待した選手はラムさんです【ダンプ辻のキャッチャーはつらいよ】

 

82年の1年で大洋を退団したM.ラム


僕が一面を飾った日


 ちょっと前だけど、日刊スポーツのヨネちゃん(米谷輝昭さん)から、この連載が100回になったとき、手紙が来たんですよ。昔から何だか気が合う記者さんでね。時々、僕の記事も書いてもらいました。今でも気がついたことがあると、すぐ電話をしています。今はプロ野球の取材はほとんどなく、神宮の大学野球ばかりみたいですけどね。

 封筒に入っていたのは、100回連載のお祝いの言葉と、昔の新聞のコピーでした。見出しは、「江夏、若さで“213球”」とあります(1968年の5月21日の日刊スポーツの一面)。(阪神時代の)江夏(江夏豊)が、延長12回を投げ抜いて大洋に勝った試合なんですが(川崎球場。もちろん、前日の20日の試合)、大きな写真に僕が載っているので記念に送ってくれたようです。一面になったことがなかったわけじゃないけど、マスクをかぶっていたり、ピッチャーの横で顔が見えんことが多い。そもそも、たまたま映っていただけというときがほとんどでしたしね。それが、この新聞は、はっきりマスクを取った顔が見えて、僕の「ファインプレー」と説明文も入っていました。

 しかもね、この試合で、僕はなんと決勝ホームランを打っていたんですよ。もっと言えば、僕が生涯で唯一予告ホームランを打った試合です。4対4で延長となった12回表でした。2アウトで僕に打席が回ると、顔見知りのグラウンドボーイから「ダンプさん、早く終わらせてよ」と言われました。ちょっとバタバタして長い試合になっていましたからね。江夏のいいときは12回投げても球数が200なんていかないし。それで、もちろん冗談ですが、「よし、任せとけ!」で思い切って振ったらホームランになったんですよ。相手は平岡(平岡一郎)という左ピッチャーでしたが、こっちがびっくりでした。

 裏の回を江夏が締めて5対4で勝利です。コピーの記事をじっくり読んだら、試合後の江夏がピッチング内容を聞かれ、「辻さんがすべて知ってますから」と言ったらしい。初々しいね、あいつもまだ(笑)。

 話を戻しますけど、このときの写真は、大洋の松原(松原誠)がフックスライディングをしているところを僕が飛びついてタッチし、アウトにしたものです。松原がこっちの思ったより右側に滑ってきて、びっくりして倒れながらタッチをしたものです。あとで「僕は左側(左足を折る)しかスライディングできないんだ」と松原に言われ、それもびっくりしました。松原はファーストの守備で、足の前後開脚でペタリと着けて捕球するくらい股関節が柔らかい人でしたが、柔らかさとスライディングは関係ないんですね。親分肌で、大洋に移籍したときは、ずいぶんお世話になりました。

 江夏と松原の絡みで1つ思い出しました。僕と江夏のバッテリーは、僕の捕球術と江夏の制球で球審をだまくらかし、アウトローのストライクゾーンを少しずつ外に広げて楽しんでいました。球審も、いつの間にかボール1個外れてもストライクと言っていましたしね。それに対し、唯一文句を言ってきたバッターが松原です。「ダンプさん、いくら何でもあれはないでしょう。少し広過ぎだよ」と言われちゃいました。この人は巨人に行ったあと、大洋にコーチとして戻り、僕にもバッティングを教えてくれたのですが、能力がないのか言われたことができませんでした。申し訳なかったです。

印象深い大洋の助っ人


 松原もいいバッターでしたが、大洋に行って最初にすごいなと思ったのが田代(田代富雄)でした。入団が決まったあと、昭和49年(1974年)の秋季キャンプだったと思いますが、まだ一軍にも出たことがない選手なのに、打撃練習でレフトの後ろにあった室内練習場の屋根にバンバンぶつけていた。あれはびっくりしました。すごい力だなと感心しました。

 打球と言えば、大洋のセカンドだったシピンもすごかった。大根切りみたいなフォームなんですが、まともに当たると、ライナー性の当たりがどんどん伸びていく。シピンが巨人に移籍したあとですが、ショートの山下(山下大輔)がジャンプしそうな高さの打球が、そのまま左中間に飛び込んでびっくりしたことがあります。肩も強くてね、キャッチボールのとき芝生の境目くらいから下手で手首をひねるように投げると、受けるほうの手が腫れるくらいすごい球が来ていました。

 大洋の外国人選手ということで思い出したのが、少しあとだけど、ミヤーンとラムです。ミヤーンは首位打者を獲るようなミートのうまいバッターでしたが(79年)、セカンド守備もうまかった。この人はキャッチボールで必ず顔の前で捕球するんですよ。守備中の送球も顔の前で受けて、そこからのゲッツーの場合は、足のフットワークがすごく軽やかでした。ハンドリングもよく、グラブは浅いものを使っていたんで捕ってスローが早かった。チームとして、すごく助かりましたね。

 ミヤーンのあとに来て1年だけでしたが、ファーストを守っていたのがラムさんです(82年)。右打者で、まあ、そこそこの選手でしたが、実は、僕がプロ野球で初めて家庭に招待して食事をした選手だったんですよ。しかも通訳なしで彼一人で来た。びっくらもんの食事会でしたね。考えてみたら、ダンプも大したものでしょう。知ってる英語は野球英語くらいでしたが、なんとなく会話が成立していましたから。

 このとき忘れられないのは、僕がピーナッツを食べていたときです。ひょっとしたことで、ピーナッツが気管支の入り口にふたをしたようになり、呼吸困難になった。背中をたたいてもらい、呼吸を整え、なんとか一命を取り止めましたが、死ぬかと思いました。

 同じようなことが、そのあと長崎の遠征でもあったんですよ。1人部屋でしたが、夜中にのどが渇いたのでコップの水を飲もうと思ったら、水より先に空気が入って、気管支に空気のふたがかかり、呼吸がストップした。肺から空気を出そうと必死に胸をたたいたり、声を出そうとしたりして、2、3分後、なんとかなんとかふたをしている空気が取れて大きく呼吸ができました。これもラムさんがわが家に来たときの経験が生きたと思います。よかった、よかった。一人だけ“さん”をつけたのも、そんな気持ちからです。

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