ディオニシオ・アグアド Dionisio Aguado (1784-1849)

ディオニシオ・アグアドは、スペインのマドリード生まれの作曲家、ピアニスト、ギタリスト。
ミゲル・ガルシアに師事し、ギターをはじめ音楽全般にわたる指導を受けました。
1803年、父の死後、母と共にナポレオン戦争を逃れてマドリッド郊外のアランフェスに移住、 やがて独力でギター技法を開拓していきます。



1824年、『ギター教本』を出版。更に、その本の仏訳のためパリを訪れ、以後10年以上パリに滞在し、 ロッシーニ、パガニーニ、ベルリーニと友好を深めます。特に同じギタリストの、フェルナンド・ソルとは同じアパートに住み、 互いの奏法や作曲上において刺激を受け合った仲だったことは、音楽史上あまりにも有名です。



このソルとアグアドは、6単弦ギターが一般化しつつある19世紀初頭、スペインを代表した双璧でしたが、 当時、アグアドは爪を用いる弾弦法、ソルは爪を用いない指頭奏法で、2人の奏でるギターの音色は、かなり異なる物だった筈です。 しかしそれでもソルは、二人の重奏用の曲として「2人の友」を作曲していますから、 互いを認め合っていた友情の深さをうかがい知ることができるでしょう。



アグアドは、今日のギター奏法の基礎を作ったギタリストで、晩年は、故郷マドリードに帰り、 ギター教育者として過ごしました。彼の教則本は6単弦ギター奏法の基礎を作り、 現代においても、クラシックギターを学ぶ多くの学生に用いられています。


フェルナンド・ソル Fernando Sor (1778-1839)

フェルナンド・ソル(本名はSors)は、スペインのバルセロナ生まれの作曲家、ギタリストで、 スペインでは『ギターのベートーベン』と呼ばれ親しまれています。

5歳よりヴァイオリン、ギターを学び、幾つかの小品を作曲していましたが、代々軍人だった裕福な家庭に生まれた影響で、 元々は軍人志望の少年でした。しかし父親にイタリアオペラを初めて紹介された際、音楽に魅せられ軍人への道を放棄します。 またオペラだけでなく、当時、オーケストラよりはかなり劣るとされる「ギター」という楽器の存在も教えられました。



1789年、彼が11才~12才の頃、バルセロナ大聖堂の司祭に才能を認められ入学を許されますが、 父親の死後、母親が大聖堂での教育資金を経済的に支援することが困難になった為に断念せざるをえなくなります。 しかしこれとほぼ同時期、ソルの才能の噂を耳にしたサンタ・マリア・デ・モントセラト(Santa Maria de Montserrat)修道院の 新院長であるジョセフ・アレドンド(Joseph Arredondo)は、修道院にある聖歌隊に出席するための資金を提供します。

1797年、19歳の時、バルセロナにて初のオペラ作品「カリプソ島のテレマコ」Telemaco en la isla de Calipso を上演。 この作品の成功は、後日、アルバ公爵夫人からの後援を得ることにつながり、 彼のギター関連の作曲活動へ結びついていくことになります。
1800年、陸軍将校としてマドリッドに移住。アルバ公爵夫人の保護を得ながら、 イザベル・コルブラン(Isabella Colbran)や、ディオニシオ・アグアド(Dionisio Aguado)の存在を知ります。
1802年、アルバ公爵夫人の死により、彼は大切なパトロンを失うことになりますが、 幸いにもメディナセリ公爵からの支援を受けることに成功します。

※イザベル・コルブラン(Isabella Colbran)
スペイン系のイタリアのソプラノ歌手・作曲家。
1813年頃からナポリのサン・カルロ劇場のプリマドンナとして活躍。
1822年、7歳年下のジョアキーノ・ロッシーニと結婚。(1837年離婚)。
ロッシーニは彼女のためにオペラ「セヴィリアの理髪師」「アルミーダ」「セミラミーデ」を作曲しています。 彼女自身は4つの歌曲集を残しており、それぞれロシアの皇后、彼女の師ジローラモ・クレセンティ、スペイン女王、 ウジェーヌ・ド・ボアルネ王子(ナポレオンの養子)に献呈されています。


(※1985年発行 スペイン ヨーロッパ音楽祭'85記念切手)

1808年、ナポレオン・ボナパルトのスペインへの侵攻(=半島戦争)を契機に、 ナポレオンへの抗議の意味をこめた歌詞をつけた愛国主義的音楽の作曲へと傾倒、 時には路上で抗議音楽を演奏するデモ隊に参加していました。 しかしスペイン軍が敗北するとナポレオンを受け入れ、ジョセフ・ボナパルト君主政府の管理職ポストに就きました。

1813年、フランス人追放政策により、ここで彼は非常に厄介な立場に立たされることになります。 結局、フランス人に対して同情的だった多くの芸術家や貴族と共に、政府の報復を恐れてスペインを逃れ、 フランス・パリへ亡命。この時を最後に、2度と再び故郷へ戻ることはありませんでした。

パリ滞在中、彼の作曲家としての才能とギタリストとしての能力は、パリの芸術家たちの間で評判を呼び、 ヨーロッパ中を旅して周るようになり、更なる名声を獲得。 「ギターのパガニーニ」(イタリアの作曲家・バイオリニスト)とまで呼ばれるようになります。

1815年、フランスの音楽礼拝堂で作曲家の地位を確立しようと試みますが受け入れられず、 スペイン亡命者を大規模に受け入れていたロンドンに移住します。イギリスで、より多くの音楽の機会を得た彼は、 作曲家、ギタリスト、歌の先生として注目され、オペラとバレエの作曲家として広く知られるようになりました。

1823年、ロシアを訪れ、ニコライ1世の戴冠式の為のバレエ曲「エルキューレとオンファリア」Hercules y Onfalia を作曲、上演。 成功をおさめます。
1827年、今後の余生をパリで送ることに決めた彼に対し、批評家達は「ギターのベートーヴェン」として彼を歓迎します。 この時期(1823~1830年の間)、彼の作品は100回以上公演されましたが、 中でも傑作とされる作品はバレエ「サンドリヨン」Cendrillon でした。 また、この頃、ディオニシオ・アグアドとの友情を育みながら、彼との2重奏曲を書き上げています。



1830年、各国の言葉に翻訳された「ギターの方法」Metodo para guitarra などの教則本が出版されています。
1837年、妻と娘が数ヶ月もしないうちに続けて亡くなり、死去した娘の為に最後の作品となるミサ曲を書き上げますが、 娘の死は、すでに舌癌を患っていた彼の精神に大打撃を与え、2年後の1839年に没しています。