「日経ビジネス電子版」の人気連載コラムニスト、小田嶋隆さんと、高校時代の級友、故・岡康道さん、そして清野由美さんの掛け合いによる連載「人生の諸問題」。「もう一度読みたい」とのリクエストにお応えしまして、第1回から掲載いたします。初出は以下のお知らせにございます。(以下は2021年の、最初の再掲載時のお知らせです。岡さんへの追悼記事も、ぜひお読みください)

 本記事は2014年1月14日に「日経ビジネスオンライン」の「人生の諸問題」に掲載されたものです。語り手の岡 康道さんが2020年7月31日にお亡くなりになり、追悼の意を込めて、再掲載させていただきました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

(日経ビジネス電子版編集部)

 長きに渡り連載を続け、単行本3冊を刊行するまでに至った「人生の諸問題」。この辺で少しリフレッシュ、いつもの小田嶋×岡コンビをいったんバラしまして、個別対談編をお送りしましょう。先攻は小田嶋さん。津田大介さんと語ります。
津田大介(ジャーナリスト/メディア・アクティビスト)
1973年生まれ。東京都出身。早稲田大学社会科学部卒。大阪経済大学客員教授。J-WAVE「JAM THE WORLD」ナビゲーター。 NHKラジオ第1「すっぴん!」パーソナリティー。主な著書に『ウェブで政治を動かす!』(朝日新書)、『動員の革命』(中公新書ラクレ)、『情報の呼吸法』(朝日出版社)、『Twitter社会論』(洋泉社新書)、ほか。2011年9月より週刊有料メールマガジン「メディアの現場」を配信中(公式サイトはこちらから)。(写真:大槻純一、以下同)

「人生の諸問題」の小田嶋さんスピンアウト編は、ゲストに津田大介さんをお迎えしました。津田さんと小田嶋さんは、もうすでに面識も交流もおありなので、どうぞお好きなようにお話してください。

小田嶋:いきなり見捨てられた感がありますが……確かに私は津田さんとは、もう何だかんだで、ちょこちょこと会っていて。

津田:そうですね。

小田嶋:ただ、津田さんとはいつも、比較的、実のない話しかしてないので。

津田:以前から「今度、パソコンとかネットとかの黎明期の思い出話をしたいですね」みたいな話をしていたんですよね。

小田嶋:そうそう。わりと近い時期に、同じようなところで、かなり似た仕事をしていたはずなんです。津田さんとは17歳の年齢差がありますから、私の方が古いのは間違いないんですけど。

津田:僕が業界にかかわるようになったのは、1997年からですね。1993年に大学に入学して、その後にインターネットの波が来て、大学時代は24時間365日、出入り自由なコンピュータールームに入り浸っていた、という感じで。

小田嶋:WindowsNT3.51とかの?

津田:そうです。3.51だから、インターフェースはWindows3.1と同じなんです。95っぽくないNT3.51。

小田嶋:95以前のやつね。

津田:そこにNetscape Navigator1.1が入っていて、みたいな。

小田嶋:じゃあ、卒業と同時に業界にかかわっていた感じですか。

津田:在学中からですね。

小田嶋:就職はしなかったんですか。

津田:就職は、できなかったんですよ。

小田嶋:できなかった?

絵に描いたとおりの「早稲田のダメなヤツ」

津田:僕は大学生のときは本当に典型的な、怠惰な早稲田の文系のだめ学生で(笑)。

 もともと高校のときに新聞部に入って、音楽もやっていたんですね。そのころは「別冊宝島」を読んで、ルポライターとかになりたいと思ったので、それで将来、音楽と物書き、どっちに行こうかな、なんて思っていて。

 大学では打ち込み音楽を作ったりしていて、4年のときに、自分の音楽ユニットでインディーズ・デビュー直前みたいなところまで行ったんです。でも、最終審査のオーディションライブで落ちて、自分としてはもう満足した、と。それよりかはたぶん、自分は物を書く方に才能があるんじゃないかと思い、じゃあ、やっぱりルポライターだろう、と。

小田嶋:それ、早稲田のだめなやつの典型ですね(笑)。

津田:そうなんですよね。あまりにもひねりがない。駆け出しライターのころ、日経BPの記者の人からお酒の席で「早稲田で音楽やってて、その後ライターなんてお前はなんてひねりがないヤツなんだ。反省しろ!」と怒られたことがあります(笑)。その人は東大だったな……。

小田嶋:ちゃんとした就職はしてないんですか?

津田:してないんです。というか、「できなかった」というのが正しいんです。僕は1浪したので、ロスジェネ1年目ぐらいで、就職も氷河期の1年目ぐらいでした。

 ただ、もともと僕が受けようと思っていたのはマスコミだったので、氷河期はそれほど関係なかったんです。マスコミって、氷河期であってもなくても、いつでも狭き門というのがあるじゃないですか。

 それで出版社をいろいろ受けたんですが、筆記試験や作文試験は全部通って、最終面接で落とされるんですよ。

小田嶋:ああ。

津田:そこで人格を否定された気になって、すごく落ち込んだのですが、フタを開けてみたら、授業を2コマ落としてたので、ごく普通に留年しました、と。

小田嶋:内定を取ったところで、就職はできなかったという。

津田:いやー本当にひどいですね(笑)。僕は就職をする気満々、卒業する気満々で、最終面接に行っていたんですけどね。

小田嶋:ああ。というか、分かる気がする。最終面接までは行くけど、その最後の面接で落ちるやつ、という類型があるような気がするんだよ。

津田:そこにハマっています(笑)。

北区の文化資本に一度染まると…

コラムニスト 小田嶋 隆氏

小田嶋:どういうことかというと、それは我々が北区の人間であるのと、若干、関係があると思う。

津田:確かにそれはそうですね! 僕が文京区出身だったら、最終面接に通っていた気がしますから。

小田嶋:そこが最後の微妙なところなのよ。何て言うんだろうね。

津田:ぬぐい切れない北区の、洗練されない感じというか(笑)。

小田嶋:だって王子駅前には、いきなりラブホがありますからね。

津田:「ロンドン」ですね。王子近辺にはいくつかラブホがあって、殺人事件が起きたなんて噂もありましたね。そういうところで育っていたので、駅前にラブホがあるということを、あまりにも自然なこととして受け入れていた。その特異性は北区の外の人から言われないと気が付かない。

小田嶋:なかなか、ないと思うんです、そういうのって。

津田:鶯谷とかはありますよ。

小田嶋:いや、鶯谷は、そもそもそういう街ですからね。

津田:確かに。王子は別に風俗街でも何でもないですものね。

小田嶋:だから、そういう北区の文化資本というのがあって、我々北区の人間は、面白がってもらうところまでは行くんだけど、最終的に「こいつは本当に、何年この会社にいるんだろう」とか思われちゃうんですよ。ちょっと会社生活に対してばかにしているような気配を、相手に読まれちゃうというか。

津田:北区出身の中途半端なアウトロー的感性を、うまく隠すことができないんですよね(笑)。

 それで、留年してどうするかな、と思ったときに、とにかく大学時代に打ち込んだものは何かといったら、僕の場合はパソコンしかなかったんですね。98でひたすらエロゲーをやるとか、パソコン通信やインターネットをやるとか。ゲーム、ゲーム、インターネット、ゲーム、以上みたいな感じで。

小田嶋:うーむ。

津田:大学4年の最後の方から、ライターの仕事をアルバイトで始めていたんですが、大学5年の1年間は、2コマの授業を月曜日に固めて、あとは働く、みたいなパターンだったんです。

小田嶋:津田さんのプロフィールなんかに「大学在学中からライターの仕事を始める」なんて書いてあって、あれ、ちょっとカッコいいな感があったけど。

津田:当人は卒業する気満々で、それでライターの仕事を始めたら、留年してしまって、「在学中」からやらざるを得なくなったという、ひどい理由なんですよ。嘘はついてないんだけど、結果的にそうなっただけという。

小田嶋:プロフィールをちょっと修正してもらわないとね。で、話を戻して、1993年入学で、大学生で音楽をやっていたんだ、というと、Macがないとだめじゃなかったですか。

津田:いや、そのときは(PC-)98でしたね。

小田嶋:98でもできるんだ。

津田:細野晴臣さんとか戸田誠司さんが使っていたレコンポーザという98の打ち込みソフトでしたね。TM NETWORK時代は小室哲哉さんも使ってたかな。

小田嶋:ああ、そうかそうか、DTMの打ち込み系の、ピコピコした感じのやつでやっていたんですか。

津田:そうです。ひたすらテンキーで入力をしていくという。それで打ち込みのソフトとMIDIのインターフェースを買って……とやっているうちに、あ、パソコンって面白いじゃん、となって、MS-DOSのCONFIG.SYSとかを自分で書くようになって。「環境設定命! 使用できるメモリがこんなに空いた!」みたいな。

 僕は仕事でWindowsマシンのLet'snoteを使っていて、よく人から、「あれ、Macじゃないんですか」と言われるんですけど、最初にMS-DOSから入っちゃっているから、もうそれに慣れちゃっているんだよ、という。

小田嶋:確かにあの当時、若干オタク方向の人たちはむしろ98だったですよね。それで、金があって、デザイン方向の人間とかがMacで。

北区に優しかった池袋、そして故・堤清二氏

津田:それについてはいうと、池袋の影響が大きいですね。北区文化圏の人間として池袋って街はとても重要じゃないですか。

小田嶋:そうです(断言)。

津田:で、池袋の西武の9階にパソコンコーナーがあって。

小田嶋:ああ、はいはい。

津田:あそこは、伝説のパソコン少年たちの聖地になっていた。任天堂の岩田聡社長とかが若いときに常連で通っていて、ずっとプログラムを書いていた、みたいな。

小田嶋:そうそう、あのデパートは、そういうところで。そのころ俺が池袋西武を歩いていたら、パソピア7が置いてあって、エンドレスのデモで、俺が作ったデモ用キャラクター、パソ子が動いていた。

津田:えーっ! すごいじゃないですか!

小田嶋:『親子で学ぶパソピア7』という、私の記念すべき初著作で、自分で組んだプログラムがありまして、それを打ち込んだマシンがデモしていたんですね。「おっと、パソ子じゃねえか」、と、結構晴れがましかった思い出ありますよ。

津田:1980年代、実はセゾンカルチャーが、僕たちを支えてくれていた部分があるんですよね。堤さんは僕らみたいなダメな北区民にも優しかった!

(※セゾンカルチャーの生みの親、堤清二さんが、2013年11月にお亡くなりになりました。慎んでご冥福をお祈り申し上げます)

小田嶋:しかし、黎明期というものにおいて、17歳の年の差は、あんまり関係ないですね。だから津田さんも、私が書いたものを読んでいたかもしれないですよね。

津田:そうそう。そのころの僕は「コンプティーク」「ポプコム」「テクノポリス」「ログイン」、そしてあの「ベーマガ」とかを読みまくっていましたね。小田嶋さんはまさに、その辺のサブカルから出ていらしたので。

小田嶋:あのころはパソコンに限らず、サブカルというものがすごく勢いのあった時代ですよ。

津田:1980年代ですからね。それで、僕の人生がだめになったのは、パソコン通信に触れてからなんです。

人生をダメにした「いっちょんちょん」

小田嶋:ああ、パソコン通信、パソ通ね。どこのですか。PC-VANとか?

津田:僕は最初は草の根でしたね。草の根BBSで、まずモデムを買ってきて、モデムが…

小田嶋:300ボーぐらいですか。

津田:いや、僕が買ったときには、1995年ぐらいだったから、いっちょんちょん(14400Kbps)モデムでした。

小田嶋:いっちょんちょん、にっぱっぱですね。

全然分からないです。

津田:ともかく、それがあって、パソコン通信にハマって、いろいろなBBSに出入りして。

小田嶋:そうか、あれにハマるということは、やっぱりツイッターへの道が用意されていて(笑)。

津田:はい(笑)。ですから、最初はアングラBBSとかいろいろ入っていった後、次はやっぱりニフティに行って、という感じでしたよね。

小田嶋:あと日経もパソコン通信の会議室をやっていたんだよね、日経MIXって。

津田:日経MIX、PC-VAN、アスキーネットにNifty-Serveを合わせて、4大パソコン通信と呼ばれてました。

「大人たちってなんてしょうがないんだろう」

小田嶋:日経MIXは、会議室の室長がみんな高飛車な人たちばっかりでね。素人のくせに口を出すと、「お前はまだ早い。勉強しておいで」と、すごくたしなめられる(笑)。

津田:パソコン通信やネットのおかげで僕は、大学のときに大人世界に触れることができました。

といいますと?

津田:どういうことかというと、大人とか社会人とかいうのは、もっと立派なものかと思っていたら、この人たちはパソコン通信の会議室で、実名で、ものすごい罵りあいをしている、と。

小田嶋:あれ、ひどかったです。

津田:インラインで逐次引用しながら、大人が実名で、ひどい言葉で揚げ足を取り合い、ののしり合っているという。その不毛な争いを見て、ああ、世の中には、こんなに大人げない人たちがいるのか、と(笑)。

小田嶋:ののしり合いの質は、今のツイッターと同じなんだけど、もっとスキルのある人たちがやっていたから、「これはヘタに入っちゃいかんな」というのがありましたよね。

津田:ニュースグループの「fj」とかニフティの荒れている会議室のやつは、真剣な、抜き身の切り合いみたいな感じで、あれに比べれば、「2ちゃんねる」なんて、駅前のチンピラのガンの飛ばし合いみたいなものでしたね。

実名制は、背水の陣を生む

小田嶋:そうそう、実名なだけに、背水の陣なんですよ。

 「2ちゃんねる」でもツイッターでも、匿名でやっている連中って、何か言って言い逃げできるでしょう。「お前の母ちゃん出べそ」ぐらいのことを言って、逃げて帰ってくればいい程度で、そんなに深い争いにならないようにしている。でも、あそこで実名でやっていた人たちは、互いに全身全霊をかけて相手を否定する議論をしてましたね。

じゃあ、ネットで実名を出したら理性的な会話になる、というのはウソですか?

小田嶋:匿名だからタダの、ののしり合いで終わっているのであって、実名を出しちゃうと殺し合いになるんじゃないか、と思う。

津田:そうそう。「大人って大人げないんだなー」と、僕は心の底から思いました。あれ、言葉遣いは丁寧なんですよね。

小田嶋:そうそう。だから物言いに陰険さが籠もって、もっと恨みが残るんですよ。

津田:冒頭に「田中@○○情報システムズです」とか名前を書いて、他人を斬りまくった。

小田嶋:「やあやあ、我こそは○○情報システムズの田中なり」、って、旗に名前を書いて、名乗りを上げちゃっている。

津田:戦国時代でしたね……。で、話を戻しますと、僕の大学時代は、とにかくパソコンを買ったことによって、パソコンのCONFIG.SYSをいじり、エロゲーやその他のゲームをやり、パソコン通信にもハマり、そしてインターネットをやっていた、という感じでした。

小田嶋:それ、完璧にこじらせた形ですね(笑)。

そして、Napstar爆誕

津田:こじらせていました(笑)。あのころ、ファイル交換ソフトとネットゲーム、「ウルティマオンライン」とかがあったら、僕はたぶん現世に帰ってこられなかったと思います。

小田嶋:じゃあ、Napstarの世界に入ったのは、少し大人になってからだったの?

津田:そうです。あれは1999年です。もうライターになってましたね。

小田嶋:ああ。俺はいい大人だったのに、Napstarには、結構人生を狂わされたのだよ。

津田:あれは狂いますよ。僕も狂ったといえば狂いましたからね。

小田嶋:Napstarっていうのは、ファイル交換ソフトの元祖で、それもハードディスクの中にあるソフトをお互いに探し合って、「これをよこせ」とか、「これをやっちゃる」とかができる。ただ、Napstarの時代はまだ音楽だけだった。今から思えば信じられないけど、初めのうちは、音楽ソフトのやりとりだけで、「えっ、音楽ってタダになっちゃったの?」という、すごい驚きがあった。

津田:最初の衝撃は大きかった。

小田嶋:俺なんかは古い音楽ファンだったから、血の出るようなお金をレコードにつぎこんでいたわけですよ。それを、「えっ、こいつらタダで?」と。

津田:僕もすごくCDとか買いまくっている人生だったから、分かります。でもCDの時代でも、友達との貸し借りというのは当たり前にやっていたじゃないですか。

小田嶋:やっていましたね。

ヒッピーの夢がそのまま現れた

津田:その貸し借りが、何か強烈に最大化されて、世界中とつながったら、これは夢のような世界だな、みたいなことを思っていたら、ここに夢があったぜ、という。

小田嶋:交換経済とかシェアする文化とか、ヒッピーコミューンの理想形が、ある日突然できちゃったように見えたんですよね。

津田:あのころ、レコード会社がリーガルな音楽配信を手がけ始めていたんですが、パソコン雑誌の取材でレコード会社に行って、雑談していると、「最近、ADSLを入れたんだけどさ、Napstarって速くて本当、快適。本当、最高」みたいなことを、レコード会社の幹部の人が言っているわけですよ(笑)。

小田嶋:つまり、一番音楽が好きな人たちが、最初にNapstarにハマっていくわけで。俺の友達なんかでも、音楽関係のやつは全員、Napstarに入って、それで1日中ダウンロードしているという生活を送っていました。

津田:でも僕は、CDはCDで買っていましたよ。

小田嶋:Napstarで集めるんだけど、結局、それをまたCDで欲しくなるというのがありましたよね。だから、あれは必ずしも音楽を滅ぼしたわけじゃなくて、フリーミアムっぽかったですよね。

津田:だって、あれがあったから、iTunesができたわけですからね。

それは、クラウドの始まりだった

小田嶋:1990年代のおしまいから2000年代の頭にかけては、ネットが出てきて、パソコンの性能が上がって、パソコンの世界が一番アナーキーだった時代です。

 その前の1980年代というのはマニアの時代だから、それなりに面白いことは起こっていたんだけど、マニアの間で行ったり来たりしていただけで、閉じていました。で、その後に、それが世界に広がって、いろいろなものがただで流通するようになって、2000年代の途中ぐらいから、今度は全部産業化しちゃうんですよね。

 産業化って課金のことで、そうなると、例えばグーグルに入るやつはエリートだけになるとか、そういう時代になる。

津田:Napstarに話を戻すと、僕にしても、2000枚とかのCDを持っていると、職場や家に散乱しちゃって、「あれが聴きたいんだけど、どこかに行っちゃってるな」というのがあるわけですね。そんなときにNapstarを検索すると、あったりする。それじゃ今すぐあの曲聴きたいから取りあえず落とそう、みたいになり、そういうときに「あれ? これって、俺は違法行為をしているのか?」っていう問いが自分の中に生まれた。今考えると、買ったコンテンツをデジタルデータにしてネット上でいつでも落とせるようにするって、要するに今で言うクラウドコンピューティングなんですよね。

小田嶋:ああ、確かに。

津田:自分の持っているものを、ネットのどこかに置いていて、それを落としているにすぎない、という。クラウドという概念や単語が生まれたのは2006年なので、Napsterが出てきた1999年の時点では当然クラウドという言葉はありませんでしたが、あのとき既に「世の中はたぶんこうなっていくんだろうな」ということは感じていました。

小田嶋:このころに我々が抱いた予感というのは、実はあんまり間違えてないんだよね。

津田:だって「iTunes Store」のインターフェースって、Napstarと、まるっきり同じですからね。

小田嶋:だからジョブズという人のすごいところは、テクノロジーだけじゃなくて、シェアという考え方だったり、構造であったりするところに目を付けたところなんですよね。彼は単純なエンジニアじゃなくて、アジテーターだったんですね。

(→後編に続きます)

(「人生の諸問題 令和リターンズ」はこちら 再公開記事のリストはこちらの記事の最後のページにございます)


「人生の諸問題」は4冊の単行本になっています。刊行順に『人生2割がちょうどいい』『ガラパゴスでいいじゃない』『いつだって僕たちは途上にいる』(以上講談社刊)『人生の諸問題 五十路越え』(弊社刊)

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