安倍首相(左)が1月にオマーンを訪問。ハイサム国王と会見した(提供:OMANI NEWS AGENCY/AFP/アフロ)
安倍首相(左)が1月にオマーンを訪問。ハイサム国王と会見した(提供:OMANI NEWS AGENCY/AFP/アフロ)

 2019年12月27日前後、まだイランと米国の軍事衝突で世の中が大騒ぎになる少し前のこと、わたしのツイッター周りが突然、騒がしくなった。オマーンに関するアラビア語のツイートがやたらと流れてきたのである。79歳になる、オマーンのカーブース・ビン・サイド国王(以下、カブース)が「危篤だ」とか、「いや元気だ」とか、「回復を祈る」だとか。錯綜(さくそう)した情報が乱れ飛び始めたのだ。

 カブースががんを病んでいるとの説が2010年代初めから流れており、実際、国外で長期にわたり、治療を受けていた。直近でも、19年12月7日から治療や検査のためベルギーを訪問。12月13日にはオマーン王宮府が帰国を発表している。このときからすでに、カブースは祖国で死ぬために帰国したなどの観測が流れていた。そのため、年末に危篤説が流れたときは、多くのオマーン人や専門家たちが「やっぱり」と考えてしまったのである。

 オマーン王宮府はその後、カブースの容体は安定していると公式発表したが、年が明けた1月11日、同国王が10日夕刻に崩御したことを明らかにした。となると、年末の危篤説は、どこから漏洩したのか不明だが、かなり精度の高い情報だったのかもしれない。

 カブースは短期間の結婚経験はあるが、子どもはいない。「皇太子」を任命するなど、公のかたちで後継者を指名してはいなかった。ただ、後継者の名前が記された遺言状が、厳重に保管されていると言われていた。

 オマーンの憲法に当たる基本法第6条は、国王が空位になった場合、王族会議が3日以内に後継者を決定すると定めている。そのため、国軍の長らかなる国防会議は2020年1月11日、新国王選出のため、王族会議を開催するよう呼びかけた。そして、王族会議は、カブースへの忠誠から、同国王が指名した者を国王とすると決定したと、国防会議に伝えている。これは、新国王の指名において、王族会議内で合意ができなかったことを示しているのかもしれないが、はっきりしたことは分からない。

 いずれにせよ、王族会議が新国王を指名しなかったため、国防会議は、カブースが王族会議に宛てた書簡(遺言状)で指名した者を確認する手順に移った。そして、王族会議は、カブースの書簡を開封するよう国防会議に委託した。

後継者は予想どおりでもあり、予想外でもあり

 それを受け、王宮府相であるスルターン・ビン・ムハンマド・ヌァマーニー国防会議議長代行が、国軍上層部や国家評議会議長、諮問評議会議長、最高裁長官、そして王族会議メンバーらの前で書簡を開封し、カブースが指名した名前を読み上げた。そこに書かれていた名前は、予想どおりとも言えるし、予想外とも言えた。書かれていたのはカブースのいとこであるハイサム・ビン・ターリク・アール・サイード遺産文化相の名であった。

 「予想どおり」と言うのは、ハイサムは、カブースの叔父であるターリクの息子であり、最も有力な次期国王候補ともともと見なされていたからだ。「予想外」というのは、近年、ハイサムの異母兄(年齢で言うとハイサムより数カ月上)でもあるアスアド国王代理兼副首相を有力視する見方が高まっていたためである(なお、第3の候補であったシハーブはハイサムの同腹の弟)。

オマーン王家と日本の知られざる縁

 アスアドは2002年に国王個人代表に任命された。17年に副首相となって以降、特に、彼を次期国王だと予想する人が多くなった。昨年行われた今上天皇の即位の礼では、アスアドがオマーンを代表して参加しており、日本政府としても「次期国王」としてかなり気を使った対応をしていたと聞いている。

 ちなみに、アスアド氏は即位の礼での来日に際し、兵庫県中南部の加古郡にある稲美町にある墓に詣でている。墓の主の名は大山清子。アスアドの、そしカブースやハイサムの祖父に当たるタイムールの妻だった日本人女性である。

 タイムールは1913年、英国の保護下にあったオマーンの国王に即位した。だが、英国の影響に嫌気がさして、1932年、王位を息子のサイードに譲った。そして世界漫遊の旅に出て、1935年に日本の神戸に立ち寄ったのである。ちなみにそのサイードの息子がカブース。サイードの弟がターリク、すなわちアスアドやハイサムの父だ。

 タイムールは神戸のダンスホールで日本人女性の大山清子を見初め、翌1936年に再来日し、彼女と結婚した。2人の間には娘、ブサイナ(ブセイナ)が生まれた。しかし、その後しばらくして清子が病死したため、タイムールは日本を離れ、ブサイナをオマーン人として育てるため、彼女をオマーンに送った。

 そのとき、彼女の後見人となったのが、彼女からみれば、異母兄にあたるターリクであったと言われている。したがって、ブサイナは、カブースやハイサムから見ると、叔母に当たるわけだ。ただし、実際に育てたのは、ターリクの異母兄であるサイードの母(タイムールの第1夫人)だそうだ。

 なお、オマーンと日本のつながりで言うと、オマーン人の詩人で政治家のアブッスーフィーの詩集『アブッスーフィー詩集』が1937年に大阪で出版されている。これは、わたしが知るかぎり、日本で出版された最初のアラビア語の書籍である。ちなみにアブッスーフィーはタイムールの側近だった人物。恐らくそれもあって日本で出版されたのだろう。

中立外交を武器に特殊な地位を占める

 閑話休題。カブース崩御がもたらした影響である。カブースは、独裁者の多い中東諸国のなかでも飛びぬけた独裁者の一人と言える。1970年に宮廷クーデターを起こして、父サイードから権力を奪った。その後、国王(スルターン)となり、以後、首相、外相、国防相、財政相、中央銀行総裁、また国軍最高司令官を兼任するなど、事実上オマーンの全権を掌握していた。これだけの権力を個人で独占していたわけだが、不思議なことに、国内でもまた国外でも批判されることは少なかった。人徳やカリスマ性があると言ってしまえばそれまでだが、問題ははたして新国王ハイサムにそれがあるかどうかである。

 オマーンは産油国だが、埋蔵量は少なく、石油の可採年数はあと15年と言われる。したがって、経済面で見れば、オマーンのプレゼンスは大きくない。しかし、外交面でみると、カブース時代のオマーンが果たしてきた役割はきわめて大きい。例えば、エジプトが宿敵イスラエルと平和条約を結んで、全アラブ世界から総スカンをくらったとき、オマーンだけはエジプトとの関係を維持した。

 また、オマーンはイスラエルと国交こそ結んでいないものの、1994年にはイスラエルのラビン首相がオマーンを訪問。96年には、両国は相互に通商代表部を設置している。また、2018年にはイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相がオマーンを訪問、カブースと会見した。

 さらに、20年1月28日に米国大統領のドナルド・トランプが新しい中東和平提案を行ったとき、ホワイトハウスにはネタニヤフとともに、オマーン、バーレーン、UAE(アラブ首長国連邦)の駐米大使が同席していた。この新提案は、一方的にイスラエル寄りだということで、アラブ側、イスラム側からすぐに反発が起きている。トランプは、イスラエルとともにこれらアラブ3国の協力に感謝の意を表明している(オマーンが最初に言及されている!)。欧米のメディアを含め、イスラエル寄りだと批判されているトランプ提案に、オマーンは事実上の賛意を表明したのである。

 このようなことが可能なのは、もちろん同国王が、世論(国民の反イスラエル感情)を気にする必要がまったくなかったことが大きい。だが、それだけではないだろう。オマーンがアラブ世界、中東世界で占める特殊な位置が影響している。

 例えば、オマーンの宗教は、基本法でイスラーム(以下、イスラム教)だと定められている。しかし、オマーンのイスラム教はスンナ派(以下、スンニ派)でもシーア派でもない。イバード派という、ともすれば異端視されてきた宗派がメインなのである(イバード派はハワーリジュ派というイスラム教で最初の分派を起源に持つ)。歴史的に見れば、オマーン人の多くは、少数宗派であることの悲哀を切実に感じてきたはずであり、旗色を鮮明にすることの危険性も理解しているはずだ。したがって、スンニ派とシーア派間の対立では、比較的中立の立場に立てる。

 また、イランとは歴史的に強固な関係を維持している。1960年代に起きたズファール反乱で、イランはオマーン政府を支援した。80年を通じて続いたイラン・イラク戦争では、他のアラブ諸国がイラクを支援するなか、オマーンはイラン・イラク両国との等距離外交に腐心した。

 また、2015年のイラン核合意(JCPOA)では、米・イランの事前交渉の場としてオマーンが重要な役割を果たしていた。イランとGCC(湾岸協力会議)諸国との関係を改善すべく調停にも努めている。これらは、経済小国オマーンが展開する全方位外交のたまものと言えるだろう。

自衛隊の中東での活動にオマーンの協力は不可欠

 日本外交にとってもオマーンの役割は小さくない。昨年12月にイランのハッサン・ロウハーニー大統領(以下、ロウハニ大統領)が来日し、今年1月には、安倍晋三首相がサウジアラビア、UAE、オマーンの3国を歴訪している。いずれの場でも、昨年来激化しているペルシャ湾での緊張をめぐって日本の対応が議論された。

 ペルシャ湾での対立で、トランプはイランを抑え込むべく「海洋安全保障構想」を主張し、サウジアラビアやバハレーン(以下、バーレーン)、UAEなどがそれに同調した。

 しかし、日本は、イランとの関係に配慮して同構想に参加せず、独自に「調査目的」で中東に自衛隊を派遣することを選んだ。年末年始の日本の中東外交の重要なポイントは、この日本の取り組みに関係各国からの理解を得ることであり、その目的はおおむね達成されたと見ていいだろう(自衛隊派遣に関する日本国内での議論はここでは問わない)。

 この派遣で自衛隊の活動範囲として想定しているのは、オマーン湾からアラビア海、アデン湾であり、まさにオマーンと接する海域なのだ。さらにホルムズ海峡のアラビア半島側に突き出したムサンダム半島もオマーン領である。それゆえ、自衛隊の活動にオマーンからの協力は必須であり、安倍首相の訪問先にオマーンが含まれた理由の第1はそこにあるだろう。

オマーンは一帯一路構想における中東の要

 また、日本にとって、オマーンが重要になるもう1つの要素として、オマーンが中国の一帯一路政策の、中東における要に位置している点も挙げられる。オマーンが開発戦略上の重要拠点と位置付けるドゥクム経済特区に隣接する場所で、「中国オマーン産業パーク」の建設が進んでいる。そして、このドゥクム港への投資を含め、オマーンには莫大な中国資金が流入しているのだ。このままだと、オマーンは中国の債務の罠(わな)にはまりこみ、ドゥクム港が中国の租借地になる恐れだって否定できない。スリランカのハンバントタ港と同様の道をたどりかねないわけだ。ハンバントタ港を出て、パキスタンのグワーダル港(以下、グワダル港)およびドゥクム港を経て、ジブチに至るルートはすでに中国マネーの影響下にある(この辺りのルートは15世紀の鄭和の南海遠征とそっくりだ)。

 ちなみに、パキスタンのグワダル港は1958年までオマーン領であり、その住民にはオマーンとパキスタンの二重国籍者が少なくない。民族的にはバルーチー人が多く、彼らはオマーンでもアラブ系に次ぐ人口を誇る。

 さらに、イエメンでの戦争でも、オマーンは外交能力を発揮している。サウジアラビアとフーシー派(イランの支援を受けているとされるイエメンのシーア派勢力)の間の協議がオマーンで行われているのだ。もちろん、オマーンにとってイエメンは国境を接する隣国であり、そこでの戦争は他人事ではない。個人的には、オマーンを媒介にした対イエメン人道支援は、人道の観点から見たイエメンの状況を改善するのみならず、対オマーン支援の観点からも重要な貢献になりうると考えている。オマーンを日本の対湾岸外交の柱の1つに据え、中国に対するけん制の意味を持たせることも可能になるだろう。

 オマーンは仲介や調停をしているのではなく、協議の場を提供するファシリテーターにすぎないとの見方もある。だが、紛争当事者が協議の場に着くためには、その場の信頼性も問題となる。これは、オマーンが長い歴史のなかで身につけてきた処世術なのかもしれない。

 中東の石油に依存する日本は、「中東の混乱を解決すべくもっと大きな役割を果たすべきだ」、自衛隊の派遣などに見られるように「軍事的にも貢献すべきだ」という議論もある。確かにそれも一理ある。だが、現在進行形のオマーンやクウェートの仲介・調停努力を支援することで、安定化に貢献することも効果的ではないかと、個人的には思う。この2国とも、アラブ人の国であり、親米国であり、米軍基地を国内に有しながら、イランとアラブ諸国、イランと米国の間でバランスの取れた外交を目指している。その方向性は日本の中東外交とも合致するはずである。(敬称略)

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