18世紀のドイツで活躍した作曲家・音楽家、ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750年)(写真:candyman/123RF)
18世紀のドイツで活躍した作曲家・音楽家、ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750年)(写真:candyman/123RF)

 大音楽家のヨハン・セバスティアン・バッハとゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが誕生して今年は333年になる。神聖ローマ帝国を構成するドイツで生まれた2人の生涯は対照的だった。バッハが教会音楽家に徹しドイツにとどまったのに対して、ヘンデルはイタリアでオペラを学び、英国に帰化して音楽を大衆に広めた。産業革命を前にしたグレート・ブリテンの吸引力の大きさを示している。いま欧州は英国の欧州連合(EU)離脱で地図が塗り替えられようとしている。金融機関を中心に、英国からドイツなど欧州大陸への移転が相次いでいる。BREXITで、「英国の時代」は終わるのだろうか。

時代の節目で誕生

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685年~1759年)。ドイツ出身の作曲家だが、後にイギリスに帰化した。ヨハン・ゼバスティアン・バッハと並びバロック音楽における最も重要な作曲家の一人(写真:nicku/123RF)
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685年~1759年)。ドイツ出身の作曲家だが、後にイギリスに帰化した。ヨハン・ゼバスティアン・バッハと並びバロック音楽における最も重要な作曲家の一人(写真:nicku/123RF)

 バッハとヘンデルが生まれた1685年は「欧州の時代」が動き出した節目と位置付けられる。神聖ローマ帝国を舞台とした宗教戦争「30年戦争」が終わり、1648年ウエストファリア条約が締結される。ドイツは諸侯の領邦主権が確立し、300以上の領邦に解体される。戦争による荒廃で、ドイツは近代化が遅れる。そのなかでプロイセンの軍国主義が台頭する。

 神聖ローマ帝国は形骸化し、欧州各国は主権国家として条約に参加し、主権国家体制ができあがる。ウエストファリア体制である。まだアジアが世界の国内総生産(GDP)のなかで6割を占めていたが、「欧州の時代」が見え始めていた。英国を中心に産業革命への予兆があった。

 ちなみに、日本では徳川5代将軍が生類憐みの令を出していた時代である。

2人の大音楽家の違った道

 こうした欧州の激動のなかで、バロック後期の音楽を先導した2人の大音楽家は、まったく違った道を歩んだ。音楽一家に生まれたバッハは教会音楽家に徹し、ストイックに音楽を追求した。純「国内派」である。これとは逆に、ヘンデルは欧州の田舎であるドイツに飽き足らず、イタリアでオペラを学び、音楽の一大消費地である英国に渡って、人生の3分の2を過ごすことになる。そして晩年は故国ドイツには戻らず英国に帰化する。時代に沿った「国際派」だった。イタリア語のオペラにとどまらず、英語のオラトリオを通じて、貴族のためのものだった音楽を大衆に広める役割を担った。

 同じ宗教音楽でも、バッハの「マタイ受難曲」はあくまで荘重だ。聞き終えて会場を出るとき足取りが重くなる。一方、ヘンデルのオラトリオ「メサイヤ」には、長くて疲れても、どこか爽快感がある。

 バッハは生存していた時代にそれほど高い評価を受けていたわけではない。絶対的な評価を受けるようになるのは、死後数十年経ってからだったといわれる。チェロの名曲、「無伴奏チェロ組曲」にいたっては、13歳の少年パブロ・カザルスが19世紀末に発見するまで埃をかぶったままだった。

 これに対して、ヘンデルは時代の寵児であり、バロック音楽のスーパースターだった。同年代のバッハはそんな有名人に面会を申し入れたが、ヘンデルは取り合わなかったといわれる。互いに影響されることもなく、それぞれの道を歩んだのは、音楽の純度を高めるうえでむしろ意味があったかもしれない。

2人に共通するもの

 バッハは没後「音楽の父」とあがめられ、「3B」(バッハ、ベートーベン、ブラームス)というドイツ音楽の系譜を築いた。ヘンデルはドイツからはドイツ人音楽家といわれ、英国からは英国人音楽家として尊敬された。どちらの音楽人生が正しい道だったかは一概にはいえない。

 2人に共通するのは、その音楽が様々な楽器で演奏されることだ。バッハのシャコンヌ(無伴奏バイオリン・パルティータ2番の終曲)は、ピアノ(ブゾーニ版)やクラシックギター(セゴビア編)などほかの器楽で演奏されるだけでなく、オーケストラの曲にもなっている。神の啓示を受けたとしか思えない荘重な音楽である。

 一方、ヘンデルのハープシコード組曲2番の第4曲、サラバンドは、映画「バリーリンドン」の冒頭に流れる壮麗な曲である。クラシックギターでは稲垣稔の演奏が美しい。

 戦後の日本の音楽界を率いた伊福部昭は映画「ゴジラ」のテーマ曲で知られるが、クラシックギターも演奏した。愛奏したのは、このバッハのシャコンヌとヘンデルのサラバンドだといわれる。時代を超えた運命的な響きを共有していたからだろう。

「英国の時代」の吸引力

 ヘンデルが新天地を求めて英国に渡った時代、英国には新しい風が吹いていた。バッハ、ヘンデルが誕生した直後の1688年、英国議会は名誉革命によって、「権利の章典」を発布し、議会が主権を握る立憲王政が確立する。ヘンデルが英国に移る直前の1707年、英国はイングランドとスコットランドが統合しグレート・ブリテンが建設される。

 合わせて、英国経済は産業革命前夜の息づきをみせる。コークスの製造法が開発されたことで鉄鋼生産力を高める。製造業分野での企業家精神は、規制の多い欧州大陸より旺盛だった。経済の活性化が、ロンドンを音楽の一大消費地にしたのは事実だろう。

 ヘンデルが英国に音楽家として定着したのは、それまで有名な音楽家といえば、ヘンリー・パーセルぐらいしかいない音楽後進国にあって、ドイツ出身であり、イタリアで学んだヘンデルの圧倒的な優位性があったからだろう。需要と供給両面から英国を終の棲家にする理由があった。

 「英国の時代」、そこには海外から人を引き寄せる懐の深さと吸引力とがあった。時代は飛ぶが、第1次大戦後の英国には、欧州各地から混乱のなかから難民が押し寄せていたようだ。不幸な戦場になったベルギーからの難民もいたらしい。アガサ・クリスティーが探偵エルキュール・ポワロのモデルにしたのは、そんなベルギー難民だったという説がある。フランス語なまりの英語を話す風変わりなベルギー難民だったかもしれない。

英国でレストア(修復)された古い蒸気機関。英国は産業革命以降、多くの人々を引き寄せてきた。(写真:stocksolutions/123RF)
英国でレストア(修復)された古い蒸気機関。英国は産業革命以降、多くの人々を引き寄せてきた。(写真:stocksolutions/123RF)

寛容さを失ったグレート・ブリテン

 その偉大なる英国がいま寛容さを失っている。2016年の国民投票でBREXITが支持されたのは、EU域内の移民の増加に反発が強まったからだ。EUを離脱して移民の規制をという声が過半を占めたのである。

 そこには、大国の責任感はなかった。EUに加盟しながら、自由な移動を認めるシェンゲン協定には加わらず、欧州単一通貨ユーロのメンバーにもならなかった。ユーロ危機でEU首脳が苦闘しているときに、キャメロン英首相(当時)は「ユーロに入ってなくてよかった」と述べて、反感を買ったこともある。EUメンバーでありながら、EUのために加盟国として何をするかより英国のためにEUをどう利用するかしか考えてこなかった。

難航必至のBREXIT交渉

 BREXITまであと1年を切った。移行期間も2020年末で設定された。この間に、EUとの間で自由貿易協定(FTA)を希望通りで合意できるか不透明だ。メイ英首相はカナダ以上の「特別なパートナーシップ」を求めているが、EU首脳は「いいとこ取りは許さない」(メルケル独首相)という姿勢で一致している。金融を含める特別扱いは認めない方針だ。

 難航するアイルランドと北アイルランドの国境問題の調整がこじれれば、「英国の分裂」につながる恐れもある。スコットランドは独立の動きを強め、ロンドンにも独立機運が高まるかもしれない。アイルランドと北アイルランドの統合論議も起きるだろう。それこそ「グレート・ブリテン」が「リトル・イングランド」になりかねない。

 BREXIT交渉に不透明感が広がれば、EU市場を目当てに英国に進出している外資は英国からドイツなど欧州大陸へ移転に動かざるをえない。米国の金融機関の動きは活発で、日本勢も後追いするだろう。問題はどの程度の規模とテンポで英国離れが起きるかである。それしだいでは国際金融センターとしてのロンドン・シティーの座も盤石ではなくなる。

 EUと外資に依存してきた英国経済への打撃は避けられない。外資流出が続けば、ポンド安を超えてポンド危機を招きかねない。そうなれば、「新英国病」に陥る恐れが出てくる。

「英国の時代」の終焉か

 この333年、欧州は2度の世界大戦を含めて何度も地図が塗り替えられてきた。しかし、最大の塗り替えは、主権国家時代のウエストファリア体制から、第2次大戦後のEUの創設だろう。主権国家を超えた、主権の共有、さらには超国家の試みである。それは2度と欧州で戦争を起こさないために「平和の組織」を創設する試みである。そのEUに対して、英国は国家主義を振りかざして挑戦してきたのである。それは、歴史に逆行するものだといわざるをえない。BREXITで変わる欧州地図は、英国を小さな島国として位置付けるだろう。

 賢明な英国人が「引き返す勇気」を持たない限り、3世紀に渡り続いた「英国の時代」は終焉のときを迎える。それを悲しむのは地下に眠るヘンデルばかりではないはずだ。

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