ドナルド・トゥスクEU大統領(右)にEU離脱の書簡を渡すティム・バロー駐EU英大使(左)(写真:ロイター/アフロ)
ドナルド・トゥスクEU大統領(右)にEU離脱の書簡を渡すティム・バロー駐EU英大使(左)(写真:ロイター/アフロ)

 離脱に向けたカウントダウンが、ついに始まった。

 3月29日、英国はEU(欧州連合)に対して正式に離脱を通知した。同日から原則2年の交渉期間を経て、英国は44年にわたって加盟してきたEUから離脱する。

 この日午後1時過ぎ、ベルギーのブリュッセルで、英国のティム・バロー駐EU大使が、ドナルド・トゥスクEU大統領の元に向かった。同氏が手にする黒革のカバンには、前日にテリーザ・メイ英首相がサインした、離脱する旨を明記した6ページの書簡が入っている。

 バローEU大使の執務室がある建物からトゥスクEU大統領が居るEU本部までの距離は約200メートル。その途中には、EUの原点となったローマ条約の締結(1957年)から60年を記念する垂れ幕が掲げられている。

 バロー大使は200メートルの道のりを、車で向かった。そして、1時25分ころ、トゥスクEU大統領に書簡を手渡した。この瞬間、リスボン条約50条が正式に発動された。

 「9カ月経ち、(ようやく)英国が送ってきた」

 トゥスクEU大統領はこの直後、書簡を受け取ったことを自身のツイッターで写真と共に発信した。トゥスク大統領は、午後2時過ぎに記者会見を開き、「決してハッピーな日ではないが、これを機にEUの結束をより深め、ダメージを最小限にしたい」と述べた。3月31日までに英国を除くEU加盟27カ国に対して、基本的な交渉のガイドラインを示すことも明らかにした。

 EU加盟27カ国の首脳は3月25日に、欧州統合60年を記念する式典を開き、改めて結束を確認した。既に、英国との交渉に向けたスケジュールも固めている。まず3月31日と4月19日に、EU27カ国の事務スタッフが今後の交渉方針をすり合わせる。

 その後、4月27日に大臣級の会合を開催。4月29日に開くEU27カ国の首脳会合で、交渉に向けた方針の最終承認を得る。交渉はEU側の責任者であるミシェル・バルニエ元仏外相に委ねられる。英国とEUが具体的な交渉のテーブルに付くのは、5月以降と見られている。

 バルニエ氏も、英国が離脱を通知した後、「我々は交渉の準備ができている」とツイッターで発信した。

 英国とEUの間には、既に難題が山積している。3月15日の記事「英メイ首相のEU離脱通告は秒読み段階に」で報じた通り、EUは交渉に入る前に、約600億ユーロ(約7兆2600億円)の「手切れ金」の支払いを求めているほか、英国に在留するEU市民の権利を保証すると明確によう要求している。バルニエ氏は、「これらの問題の解決が、交渉開始の前提となる」と明言。

 一方の英国は、手切れ金について支払いを拒否する意向だ。EU市民の権利についても、明確な方針を明らかにしていない。むしろ、これらの点も離脱交渉に含めることで、難航が予想される貿易などの交渉材料にしようとする考えが透けて見える。期限とされる2年で交渉がまとまると見る関係者は少ない。

 バロー駐EU大使がトゥスクEU大統領に書簡を手渡したのとほぼ同時刻、メイ首相は英議会で演説し、「EUとは新しく、特別で深いパートナーシップを求める」と述べた。同時に、「EUとの交渉でベストの回答を得るために、英国民が一丸となって結束しなければならない」とも訴えた。

 「ただし、メイ首相の演説とは裏腹に、EUとの交渉に向けた英国国内の分裂が深刻な状況になっている。

英国がEUに離脱を通知した当日も、英国会近くでは離脱に反対する集団の姿があった。
英国がEUに離脱を通知した当日も、英国会近くでは離脱に反対する集団の姿があった。

 離脱を通知する4日前の3月25日。

 ロンドン都心部では、英国のEU離脱に反対する大規模なデモ行進に、数万人が参加した。参加者の中には、英元副首相のニック・クレッグ氏や、トニー・ブレア首相(当時)の報道官を務めたアラスター・キャンベル氏などの顔もあった。クレッグ元副首相は「メイ首相は英国経済を危機に陥れようとしている」と英国政府を改めて批難した。

 「離脱を支持した人々も、それがいかに愚かな考えだったかを認識し始めている。英国がEUに戻るために、残留派は結束しなければならない」。マンチェスターから参加した30代の若者は、こう語った。「EUと共に繁栄したいと考える人間が、英国には多くいることを示したい」と、ロンドン近郊から参加した20代の女性は言う。英国がEU離脱に向かう中で、その将来を憂慮する声は根強い。

スコットランドは再び住民投票を求める

 2014年に英国からの独立を目指したスコットランドも、再び揺れている。

 「2度目の住民投票を実施したい」。スコットランド議会は3月28日、英国からの離脱の可否を問う住民投票の実施を英国議会と交渉する法案を、賛成多数で可決した。これは、スコットランド民族党のニコラ・スタージョン党首が3月13日に行なった演説を受けて提案されたものだ。同氏は、独立を巡る住民投票を2018年の秋から2019年の秋に向けて実施したいと表明した。

 メイ首相は、スコットランドの独立について、「今はその時ではない。スコットランドも含め、英国全体にとって最良の離脱条件を得るために団結すべきだ」と述べ、再実施に否定的な考えを示している。3月27日にはスコットランドを訪れ、スタージョン党首に連合王国の結束を訴えたが、分裂の火種は広がるばかりだ。

 連合王国を形成する北アイルランドでも、反英国政府の動きが広がっている。3月4日に実施された北アイルランド議会選挙では、英国政府による統治を支持する民主統一党(DUP)が1921年以来、初めて過半数を割り込んだ。

 一方で、アイルランドとの統一を求めるシン・フェイン党が躍進し、DUPとの議席差を1に縮めた。シン・フェイン党は、統一を巡る住民投票をすると主張している。北アイルランドでも、連合王国である英国に残留するのか、アイルランドと一体化するのかという、帰属問題が再び表面化する可能性がある。

 さらに、EU離脱を受け、ウェールズでも英連合王国からの独立を目指す動きが活発化するなど遠心力が高まっている。メイ首相にとって、EU離脱交渉と並行して、国内の求心力をどう高めるかも大きな課題になる。

3月22日に起きた英議会襲撃事件は、ロンドンの観光産業に今後影響を与える可能性もある
3月22日に起きた英議会襲撃事件は、ロンドンの観光産業に今後影響を与える可能性もある

ロンドンから続々移転する企業

 英国政府には、企業がロンドンから逃避するのを阻止する方策も大きな課題としてのしかかる。

 「英国政府がEU単一市場へのアクセスを保障しない以上、ここに拠点を置き続けるのはリスクが高い」。現在、英国に欧州の営業拠点を置く日本メーカーの担当者は言う。

 同社は現在、スイスのチューリッヒ、オランダのアムステルダム、ドイツのフランクフルトなどを候補として選定を進めているという。日立製作所や日産自動車などは離脱後も残留する意向を示しているが、日本企業のロンドン離れは始まっている。

 既に、金融機関では、米ゴールドマンサックス、スイスのUBS、英HSBC、などが拠点の一部をEU加盟国に移転する計画を進めている。大和証券グループ本社がフランクフルトなどへの移転を検討していることも報道された。人材の募集も急激に減っている。人材会社のモーガン・マッキンリーによると、2017年2月の金融業界の求人は、前年同月比で17%下落。1月と比べると、23%下落した。

 ドイツ商工会議所のエリック・シュバイツァー会頭は、在英ドイツ企業の1割が投資を引き上げ、拠点も英国外に移転すると指摘した。

 ポンド安の恩恵を受けてきた景気にも、副作用が見え始めている。石油価格の上昇に伴って、パソコンやタブレット端末の価格が上昇。食料価格も上がっている。政府統計局(ONS)が3月21日に発表した2月の消費者物価指数(CPI)は前年同月比2.3%上昇と、2013年9月以来の高水準となった。

 英中央銀行のイングランド銀行は、これまでインフレ率が2%の目標を超過する状況を容認する姿勢を示してきた。しかし、急激な物価上昇が続けば、「実質所得の低下につながり、景気が悪化する可能性がある」(大和総研の菅野泰夫・ロンドンリサーチセンター長)。

 3月22日に起きた、議会での襲撃事件は、英経済を支える観光産業に不安を与えた。今回の事件は、過激派テロ組織の関与は薄いと指摘する向きがあるものの、旅行会社のオンライン予約などを調査しているフォワードキーズのオリビア・ジャガーCEO(最高経営責任者)は、「旅行の予約に今後影響が出てくる可能性がある」と懸念する。

 メイ首相は議会の演説で、「英国は、もはや引き返せないところにまで来た」と語った。交渉が今後どう展開していくかは、誰も分からない。不安を抱えたまま、期限2年のカウントダウンが始まった。

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