リカンベントは寝そべったような姿勢で乗るのが特徴
リカンベントは寝そべったような姿勢で乗るのが特徴

 2016年10月20日、自転車の転倒事故で漫画家の小路啓之氏が亡くなった。あおむけに近い姿勢で乗る「リカンベント」タイプの自転車を運転していた時の事故が原因とされている。小路さんの作品『雑草家族』を連載中だった集英社の「ミラクルジャンプ」(週刊ヤングジャンプ編集部)は、「小路啓之先生のこれまでの創作活動に最大の敬意を捧げると共に、心よりご冥福をお祈りいたします」とつづった。

 この事故は人気漫画家が亡くなったことだけでなく、乗っていた自転車がリカンベントだったということで注目を集めた。私は、リカンベントに乗り始めて13年たつが、これほどリカンベントが世間の目を集めたことは今まで記憶にない。

 リカンベントはその特異な形態もあってか、「変な自転車」という印象で見られることが多い。また、見慣れないことが警戒感を引き出すのか、「乗りにくいのではないか」「危ないのではないか」と感想を聞くことも少なくない。

 リカンベントとはどんな自転車なのか。その可能性に魅せられて2003年からリカンベントに乗り始め、現在はタイプの違う2台のオーナーである筆者なりに解説していきたい。

リカンベント=寝そべって乗る

 まず自転車の構造の話から始めたい。普通の自転車はクランク(踏み込んだ力をチェーンに伝えて自転車を動かす装置)が体の真下にある。このクランク軸を前に出していくとしよう。すると脚を前に投げ出して乗るような乗車姿勢になる。腰の位置が降りてくるから着座位置は通常の自転車より低くなるし、前に脚を蹴り出すようにして漕ぐことになるので背もたれも必要になる。このような、どっかりと座った、あるいは寝そべった姿勢で乗る自転車のことをリカンベント(Recumbent)という。“recumbent”という単語は「横になった, もたれた」という意味の形容詞だ。乗車姿勢を示す単語が乗り物の呼び名となっているわけだ。

 リカンベント最大の利点は、横に寝た乗車姿勢なので通常の自転車と比べると空気抵抗が小さいということだ。同じ速度ならより楽に走れるし、同じ脚力なら、より一層速く走ることができるし、風の強い日には向かい風であっても楽に前に進める。

 だが、ラクということだけがリカンベントの利点ではない。街中でリカンベントに乗る楽しさは、その視界の良さにある。通常の自転車の場合は、空気抵抗を避けて前傾姿勢をとると視線が路面を向くようになり、前方視界が悪くなる。

 これがリカンベントだと、進行方向と空とが大きく開けて見える。この爽快感はなにものにも代えがたい。視界が良いことは、同時に安全だということでもある。また、脚が前に出た姿勢で乗るので、衝突時に頭から突っ込むこともない。

 もちろんデメリットもある。一番のデメリットは通常の自転車と比べると車体が長く、重くなりがちなことだ。ペダルの上に立ってハンドルを腕の力だ引き寄せるようにして漕ぐ、ダンシングという乗り方もできない。車体が重いこととダンシングができないことが重なるので、リカンベントは上り坂はあまり得意ではない。

 一般的な乗り物ではないので大量生産されておらず、通常の自転車と比べるとやや高価なのもネック。ただ自転車は3ケタ万円の車種も当たり前にあるので自転車全般としてはさほど高価ではないが、ママチャリのように極端に安価な車種が存在しないレベルだ。

視界、安定性、運動性は問題ないが、視認性には課題

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私の所有するリカンベント2台。米ライトニング社製「ファントム」(上)。台湾TW-bents社製の「TSUNAMI」(下)。TSUNAMIは、ハンドルがシートの下にある
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私の所有するリカンベント2台。米ライトニング社製「ファントム」(上)。台湾TW-bents社製の「TSUNAMI」(下)。TSUNAMIは、ハンドルがシートの下にある

 リカンベントに乗ったことがない人によく言われるのが、「前が見えにくいのではないか」「操縦が難しくて安定に欠けるのではないか」「危険を避けにくいのではないか」「ブレーキを掛けたとき前につんのめるのではないか」など。ただ、筆者から見ると、その多くはリカンベントという乗り物を実際に知らないことから来る危惧と思える。

 まず、前が見えにくいということはない。むしろ通常の自転車よりも視野は広く、まんべんなく周囲を見渡せる。姿勢の低いリカンベントの場合は視点が低いので遠くを見通すのは不利だが、フェラーリ、ロータスなどの背の低いスポーツカーの座席からの視界とさほど異なるものではない。

 そして、操縦が難しいということもない。リカンベントの設計は非常に多様なので車種によって乗りやすさの良し悪しはある。だが、通常の自転車に乗れるならば、リカンベントに乗ることは難しいことではない。また、二輪車の安定性は前輪のステアリング回りとハンドルの設計で決まるので、そこをきちんと設計してあるリカンベントなら、安定性と操縦性を十分に両立している。これは通常の自転車と変わるものではない。

 「ブレーキを掛けたとき、前につんのめるのではないか」といわれることもあるが、これは全くの印象論だ。二輪車がブレーキをかけたときのつんのめりやすさは、前後輪の接地位置と重心位置とが作る三角形によって決まる。つまり設計時に十分作り込みが可能であり、通常の自転車と同じなのだ。

 一方、姿勢が低いので自動車から見えにくく、交通事故の危険があるのは事実だ。このため、姿勢の低いリカンベントは高く旗を立て、周囲の自動車などに自車の位置を知らせるようにしている。旗を揚げることに対する法的な義務はないが、愛好家の間では当然のマナーとなっている。

 ただリカンベントという乗り物の存在が知られていないので、翻る旗を見ても、その下に背の低い乗り物が走っていることに気が付かないドライバーが多いのではないかと筆者は危惧している。現在は、リカンベントの絶対数が少ないので、旗で済んでいる。しかし、将来的にリカンベントの数が増えていくならば、高輝度LEDを仕込んだポジションライトを高く掲げるというような、より目立つ装備が必要になるかもしれない。

最大の魅力は「極められていない可能性」

 実はリカンベントの歴史は通常の自転車と同じぐらい古い。2つの同じ大きさの車輪の間にクランク軸を持ち、チェーンで後輪を駆動するセーフティー型自転車は、1880年代にいくつかの改良が重なって出現した。現在の自転車の原形だ。リカンベントはその改良型として1900年ごろにあちこちで同時多発的に発明されている。

 だがその存在が世に知られるようになったのは、1930年代にフランスのシャルル・モシェというビルダーが作ったリカンベントが、空気抵抗の小ささを生かして自転車の速度記録を次々に更新してから。当時は通常の自転車とリカンベントが同じ競技に参加していたのだ。

 ただ、これによって自転車競技の国際的な団体である国際自転車連盟(UCI)は自転車の再定義を行い、自転車競技からリカンベントを排除した。その結果、リカンベントはレース競技による技術革新から取り残されることになり、現在でも「これがリカンベントだ」という決定的な基本スタイルに確立するに至っていない。現在の自転車は19世紀以降の歴史の中で煮詰められ、基本的な設計はほぼ固まっている。だが、リカンベントには「これこそがリカンベントだ」というような定型はないのだ。

 2輪あり、3輪あり、通常の自転車のような後輪駆動もあれば前輪駆動もある。比較的クランク軸が低い位置にあって、通常の自転車とほぼ同じ感覚で乗れる車種もあるし、頭の高さとクランク軸とがほぼ同じ高さにあって徹底して空気抵抗を減らした車種もある。通常の自転車にかなり近い、頭が高い位置に来る車種もあれば、地を這うかのように着座位置が低い車種もある。それどころか前輪操舵だけでなく、後輪操舵もありだ。ハンドルの位置も、搭乗者の目の前だけではなく、シートの下にあってだらっと手を下げてハンドルを握る車種もある。

 このように、リカンベントの技術的可能性はまだ通常の自転車ほどには極められていない。ひょっとするとこの先、空気抵抗の小ささを生かし、とてつもなく快適で便利なリカンベントが出現しないとも限らないのである。

(文/松浦 晋也=ノンフィクション作家/科学技術ジャーナリスト)

文/松浦 晋也(まつうら・しんや)
ノンフィクション作家/科学技術ジャーナリスト、宇宙作家クラブ会員

 1962年東京都出身。日経BP社の記者として、1988年~1992年に宇宙開発の取材に従事。その他メカニカル・エンジニアリング、パソコン、通信・放送分野などの取材経験を経た後フリーランスに。宇宙開発、情報・通信、科学技術などの分野で執筆活動を続けている。
 代表作は、日本初の火星探査機「のぞみ」の苦闘を追った「恐るべき旅路」。近著に「はやぶさ2の真実」と「小惑星探査機『はやぶさ2』の挑戦」。
 乗り物マニアで、折り畳み自転車4台にシクロクロス1台、ママチャリ1台、リカンベント2台、オートバイ2台と自動車1台を所有。パラグライダーで空を飛んでいたこともある。

日経トレンディネット 2016年11月1日付の記事を転載]

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