ウクライナではロシアの軍事侵攻に備え、軍事訓練が行われている(写真:AP/アフロ)
ウクライナではロシアの軍事侵攻に備え、軍事訓練が行われている(写真:AP/アフロ)

 このところ、モスクワの知人から連絡があるたびに気が重くなる。戦争に備えて非常食やら、ヘルメットなどの防衛品やらの用意が急速に始まっているという。戦争が起こることは純粋に「怖い」ことであり、夜も眠れなくなっている人もいるとのことだ。筆者はかつてロシアがジョージアと紛争している際も商用で頻繁にモスクワを訪れていたが、その頃と比べても各段に戦時モードに切り替わっている印象を受ける。

 西側メディアは、キエフでの街頭インタビューや、ドンバス地方での従軍の様子など、ウクライナでの戦争準備に伴う緊張感を続々と報道している。ドンバス地方での塹壕(ざんごう)体験リポートや、キエフ市民の不安など臨場感あふれる模様が伝わってくる。一方、キエフから約800キロ離れたモスクワ市民のインタビューで、戦争間近の様子を伝える西側メディアは稀(まれ)である。

 西側メディアの知人たちは口をそろえて、ウクライナの軍や政府の関係者の取材には入れるが、ロシアではほぼ限られると言う。モスクワ支社があるにもかかわらず、現地のロシア人スタッフが取材に躊躇(ちゅうちょ)していることも一因という。西側メディアの一員として取材していれば、スパイ行為や反逆罪などを疑われ政府に目を付けられる可能性は高く、ロシア人スタッフにとっては死活問題となる。また、戦争に対する自分の考えを西側メディアに示すことをロシア人は極度に警戒している。冷戦終結から30年以上たつ現在でも、ロシア取材は難しいことを痛感する。

 東側メディアが戦争に関する情報をシャットアウトしているようなモスクワの不気味な静けさは、嵐の前の静けさとも受け止められる。モスクワの知人たちは口をそろえて、今のモスクワの雰囲気は明らかに、クリミア併合、シリアへの軍事介入やジョージア紛争時と異なっているという。例えばジョージア紛争で、ロシア人識者が一斉に戦争への論評を語っていたときと比べても今回の報道の少なさは目立っている。

 今回のロシアとウクライナの対立の根源を探れば、ロシアと西側諸国の対立がいかに無意味なボタンの掛け違いによるものかが分かる。そもそも今回、西側諸国とロシアとの緊張が高まった発端は、2019年にウクライナ大統領に選出されたゼレンスキー氏が、ミンスク合意を反故(ほご)にしようとしたことだといわれている。

 ミンスク合意とは、2014年9月に欧州安全保障協力機構(OSCE)の援助の下、(ベラルーシの首都)ミンスクにてウクライナ、ロシア、東部の親ロ派の武力勢力が創立した「ドネツク人民共和国」、および「ルガンスク人民共和国」が署名したドンバス戦争の停戦合意、およびこれが形骸化されたため、2015年2月に改めて署名された包括的措置を指す。

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ゼレンスキー大統領の選挙対策から始まった対立

 元コメディー俳優で国政経験のないゼレンスキー大統領は、ドンバス戦争の終結とオリガルヒ(ロシアの新興財閥)の汚職・腐敗によるウクライナ国家への影響を阻止することを公約に掲げて当選した。24年の大統領選再選の鍵は、分離独立派が支配する東部停戦地域であるルガンスク州・ドネツク州でどのようなパフォーマンスを示せるかだといわれていた。これには、クリミア併合時にロシア軍との戦闘で大敗を喫したウクライナは、不利な条件でミンスク合意を結ばされたとの強い思いがある。

 ミンスク合意がある限り、ドンバス地方で選挙を実施し、高度な自治権を認めざるを得ず、分離独立に法的根拠が生じてしまう。これを嫌うゼレンスキー政権は21年にかけてミンスク合意を反故にすべく、尽力してきた。米国を中心とした西側諸国の支持を得るため、国政の汚職一掃など、西側の要求を満たそうとしてきた。

 ただ、プーチン大統領と個人的にも親しい議員への制裁や逮捕などの汚職一掃や、「クリミア・プラットフォーム」開催など一連のクリミア半島返還の国際的なアピールも実を結んでいない。ゼレンスキー大統領の8月末の訪米では、バイデン大統領からミンスク合意反故への支持やクリミア半島を奪還することへの支援は得られなかった。

 そのため、ゼレンスキー大統領はドンバス地方奪還に向けて、軍事力による解決を試みている。21年4月にトルコから購入した軍事用ドローンをドンバス地方での偵察飛行に利用した。さらに、10月末にこのドローンによって、ドネツク州の都市近郊で分離独立派武装組織の榴(りゅう)弾砲を爆破した。

 分離独立派はウクライナがミンスク合意に反する攻撃を行ったと非難しているが、ウクライナはドローンがコンタクトライン(ドンバス地方の政府管理地域と武装勢力による被占領地域の間に敷かれた国境線)を越えておらず、そもそもコンタクトラインに非常に近い場所に榴弾砲を設置すべきではなかったと反論している。ウクライナがトルコからさらに軍事用ドローンを購入する計画を進めていることから、ロシアはドンバスの独立派組織に対する軍事的な「挑発」行為は、同地域の緊張を再燃させ、ウクライナ国家全体に深刻な結果をもたらすとの見方を強めていた。

 そのためドローン偵察・攻撃から数日後には、ロシア陸軍の戦車がウクライナ国境付近に配備され、2021年11月7日には少なくとも一個大隊分の戦車が集結した(2021年4月に集結して一旦撤収したものの、最終的に10万人を超える軍隊が集結している)。米国はこれをウクライナに対する攻撃的態度と騒ぎ立て、ロシアに(ウクライナ)侵略のレッテルを貼った。プーチン大統領はそもそもウクライナからのドローン攻撃に対抗すべく、けん制の意味を込めて軍隊を集結させただけである。

 米国が騒ぎ立てたので、プーチン大統領もそれに便乗して、かねて要求していたNATOの東方拡大停止を米国に突き付けたというのが実情であろう(プーチン大統領も2024年のロシアの大統領選挙に向けて外交的成果を求めていたといわれている)。2021年12月にロシアは「NATOを東に拡張しないと書面に残せば(国際条約とすれば)軍隊を撤退する」という条件を出した。

 しかし、米国にとって、NATOの旧共産圏からの全面撤退は外交的敗北を意味し、中間選挙を控えるバイデン大統領にとっては受け入れがたい。それでも全面的な衝突を避けるための落としどころを探り、2022年1月には米国およびNATOがロシアに歩み寄る方向で交渉を始めた。しかしゼレンスキー大統領は、ウクライナ不在のまま物事が決められることを恐れて、ロシアと直接交渉しようと、米国・NATOとロシアの間でまとまりかけた協議に水を差しているのである。いわば選挙対策という権力者のエゴからこのような事態まで発展したのである。

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