富久町北遺跡1次調査

  • 富久町北遺跡 1号遺構(大溝)(北から)
  • 富久町北遺跡 調査区全景
  • 富久町北遺跡 1号遺構(大溝)拡張部南側(北から)
  • 富久町北遺跡 1号遺構(大溝)南端部側調査風景(北から)

画像数:4枚

所在地 富久町35番地     
ふりがな とみひさちょうきたいせき1じちょうさ
種別 埋蔵文化財包蔵地
年代 近世
備考 ※記録保存:発掘調査報告『富久町北遺跡』2018新宿区他
概要  富久町北遺跡は、抜弁天から東京医科大学に突き当たる“まねき通り”沿いに位置する。
 平成29(2017)年9月から12月にかけて発掘調査が行われた1次調査地点(富久町35)では、幅5.0m、深さ1.6mの大型の溝が発見された。溝は少なくとも40m以上続き“まねき通り”と平行していた。余丁町と新宿六丁目に挟まれた富久町の北側には、江戸時代初期には佐久間実勝(将監)の下屋敷が所在していた。実勝は秀吉、家康に仕えた戦国武将で1万石を領し、古田織部に師事し、細川三斎、小堀遠州と並ぶ茶人である。文献史料によれば、佐久間家は寛永19(1642)年に実勝が死去し絶家となるが、春日局らの計らいで後妻の前の婚家、大草家が跡式を継承したと考えられ、「明暦江戸大絵図」にはこの場所に大草主膳の名が認められる。正徳3(1713)年には、尾張藩徳川家が取得、敷地は2万883坪余とされ、後の絵図には池や築山と思われる記載がある。但し、尾張藩は同地を本格的に利用せず、明和4(1767)年以降、次第に上げ地され、旗本屋敷、組屋敷として細分される。
 今回発見された大溝がいつ造られたのかは、現時点では不明だが、溝内の堆積土からは富士山の宝永大噴火(宝永4年:1707)により飛来した火山灰が確認されており、少なくとも大草家の屋敷であった時点には大溝は存在していたことが分かる。このため、発見された大溝は、大草家あるいは佐久間家の屋敷を囲う「空堀」であったことが考えられる。