5月12日から始まるチャンピオンシップで盛り上がりを見せるBリーグ(プロバスケットボール)。その創設には、Jリーグ(プロサッカー)創設も主導した川淵三郎氏の「豪腕」があった。Bリーグ発足時の激動を追ったノンフィクション『 B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史 』(大島和人著、日経BP)の一部を抜粋・再構成して、川淵氏の卓抜した指導力の一端を紹介する。

Bリーグの名称・ロゴデザイン発表記者会見に臨んだ川淵三郎氏(写真:長田洋平/アフロスポーツ、2015年9月15日)
Bリーグの名称・ロゴデザイン発表記者会見に臨んだ川淵三郎氏(写真:長田洋平/アフロスポーツ、2015年9月15日)

10年以上解決できなかった問題を4カ月で方向づけ

 Bリーグ発足前、日本バスケ界は、日本バスケットボール協会(以下、日本協会)の運営が混乱し、最高峰のリーグ(以下、トップリーグ)が分裂していた。旧日本リーグからの流れをくむNBLと別に、2005年に発足したbjリーグがあり、バラバラに戦われていた。分裂の一因には「実業団からプロ」という流れに対するスタンスの違いがあった。

 日本協会はコントロールできないトップリーグの存在を許し、FIBA(国際バスケットボール連盟)からはガバナンス(統治)の欠如を問題視されていた。2014年にはFIBAの国際資格停止処分を受け、あらゆる国際活動から日本が締め出された時期もある。

 川淵三郎は、バスケ界を窮地から救うために招かれた。リーグの分立状態からBリーグ創設に至る流れを作った組織が、2015年1月に結成された「ジャパン2024タスクフォース」だ。川淵はその共同議長に指名され、同年5月には日本バスケットボール協会の会長にも就いた。

 FIBAが設定した問題解決のタイムリミットは2015年6月。日本バスケが10年以上にわたって解決できなかった難題を実質4カ月で方向づけする迅速性が求められていた。2015年夏にはリオデジャネイロ・オリンピックの予選があり、解決が6月を過ぎると男女の日本代表が五輪予選にエントリーできない。特に女子は有力なメダル候補だった。

 当時78歳の川淵がここから獅子奮迅の働きを見せる。彼はタスクフォースの議論を主導するだけでなく、バスケ界の現状を自分の目で確かめるべく動いた。新リーグや日本協会のトップを担う人材探しから、両リーグやクラブ、自治体との折衝と精力的な動きを見せた。

 当時の記者会見で、川淵はこう述べている。

 「Jリーグはスタートするときに、5年の準備期間がありました。自分が十分に知ったフィールドで、どういうことが難しくて、どこにアプローチしたらいいのか、よく分かった上で5年かかった。今回のリミットは6月の初めです。ビジョン、トップリーグのあり方、日本のバスケ界を発展させていく工程表と期限も用意して、FIBAがそれを認めて、実施に移る段取りを経なければならない。猶予は4カ月ちょっとしかありません。一番の問題は何と言ってもNBLとbjを、どう1つのトップリーグにするかに尽きると思います」

 「できるだけ多くの人に会って、できるだけ多くの議論を重ねて、月1回の会議のときに、煮詰まったものをいかに出していくか。それが勝負です。そこで色々な話をしてというのでは、スピード感がまったく足りない。bjとNBLの合併問題も、同じような話の繰り返しになった。堂々巡りをさせず、きちんとどう切るかが勝負だと思っています」

危険な構想

 NBL、bjリーグに分かれていた2大リーグがどう「合併」するのか。それがバスケ界で長くフレームアップされていた論点だった。企業の合併・統合と同じように条件を詰めていくのだろうと、ファンやメディアは想定していた。

 川淵の補佐役としてタスクフォースに加わった弁護士の境田正樹は、新リーグの形を考え始めた。1つはNBLとbj リーグを合併させるオーソドックスな案。もう1つはクラブが両リーグを脱退し、「第3のリーグ」に合流する方法だった。

 境田の選択は第3のリーグ方式だった。しかし、これは危険な構想でもあった。全クラブを退会させるのだから、NBLとbjリーグは休眠状態、もしくは清算に追い込まれる。社団法人だったNBLはともかく、bjリーグには株主がいた。境田案に対してはbjリーグ側の禍根を懸念する反対論も出たという。

 しかし川淵は境田の案に乗った。川淵は説明する。

 「bjリーグは15億円の資本金を集めつつ債務超過寸前になっていた。資本を200人くらいに出してもらっていて、それを回収できないとなると責任問題になる。その回収がすべてで、今まで話が進まなかった。それは話している最中によく分かった。15億のことでなぜ日本のバスケットボールがウロウロするのか? 200億、300億の市場に向けて、15億円でうろうろしているようじゃ仕方ない。bjリーグ、NBLを脱退したものだけに申し込める権利があるという方法を考えたのは境田先生。そういう段取りは彼がいるからうまくいった」

奇襲攻撃

 bjリーグの代表者会議で、川淵が境田の想定以上に踏み込んだ行動を起こす。境田は振り返る。

 「川淵さんから朝の6時くらいに電話がかかってきて、『色々考えたんだけど』と言うんです。今日『5000人のアリーナがないとダメ、8割使えないとダメ、退会届も出してもらう』と話をするというんですよ。5000人のアリーナはいいですよ。でも退会届を出して、4月1日に新法人を作るから加盟してくれということは、bjリーグの運営会社にしたら10年間で築き上げものが無くなりますという意味。つまり消滅なんです。だけど川淵さんは『これを俺は今日言いたい』と仰るわけですよ」

 境田も川淵の賭けに同意する。

 「何をいきなり……ってなるんだけど、逆に考えると暇を与えず、いきなり社長に向かって『俺のところに来い!』とプロポーズをするわけです。初めて会った日に『離婚して俺のところに飛び込んで来い!』というのだから、これは天才だなと俺は思った。『それを言うと混乱しますけどね』って受けて、しばらく考えた。沈黙が1、2分あったと思います。でも『それで正しいと思います』って伝えたら『うん、分かった』と川淵さんは言いました」

 かくしてbjリーグの代表者会議に乗り込んだ川淵は、畳み掛けるように新リーグの構想を語リ始めた。完全な奇襲攻撃だった。

 川淵はbj リーグの幹部と経営者に対して、こう切り出す。

 「4月の初めには新法人を設立したい。ということは各クラブにはリーグへ脱退届を出していただきたい」

 川淵はこう説明する。

 「トップが変わるときは最初が大事なんだよね。初めに下から出て、緩やかな感じで途中から強く出ようと思ったときにはもう遅すぎる。新しく変わるときは、初めに高飛車に出てガンとやらないと組織ってうまくいかない。『皆さんの意見を聞きながらいい方向を探していきます』『どうぞ意見を出してください』なんていうようなことで成功するわけはない」

「あなたは、どこに行ってるんだ?」

 NBLとbjリーグのクラブは「下部リーグに落ちる」ことへの抵抗感、恐怖感が強かった。1部入りを目指す多くのクラブにとって「5000人収容のアリーナで8割の試合をやる」というトップリーグ参入の条件は、ほぼ不可能なハードルと受け止められていた。反発は「8割問題」に集中していた。

 12日の会議でも、当初は懐疑的な意見が出た。冒頭ではクラブ経営者が、北側から順に意見を述べる進行だった。青森ワッツの下山保則社長を皮切りに、川淵案への反発が相次いだという。

 川淵はそんな反発も織り込み済みだった。

 「全部読み筋で『そう言うだろうな』と思っていた。それはみんな体育館の使用を許可する人のところにしか行っていないから。そうしたらバスケットボールだけでなくバレーやハンドボールや、地域のいろんな競技にその体育館を開放しなきゃいけない。1つのプロに年間9試合も10試合も貸すわけにいかないから、せいぜい2、3試合ですよと答えるよね」

 バスケ界はクラブと自治体との関係が浅かった。施設の担当者でなく、首長にアプローチすれば答えは変わってくる。川淵はJリーグのトップを経験し、それを理解していた。

 「『あなたはどこに行っているんだ? 市長のところ行っているのか? 知事のところ行っているのか?』と聞いたら誰も行ってない。『そこがOKと言えば8割貸してくれる。それをやってから文句を言え』ということだね。俺はJリーグのときに全部の市長や知事に会っている。そのときに説得した経験があって、どうしたら首長さんが首を縦に振るのかを、自分の中で培ってきた。これほど強いものはないよね」

「天才だと思った」

 川淵は身内にも「爆弾」を落とした。両リーグの代表者会議は非公開の予定で、冒頭のみ傍聴と撮影が許されていた。にもかかわらずメディアの退席を促そうとしたタスクフォースの広報担当者を彼は一喝した。

 メディアがその場にいたのは、いわゆる「頭撮り」が目的で、そのように告知もされていた。ただし川淵はサプライズで、メディアを部屋の中に残した。すべてをさらす覚悟を決め、激論が可視化されればむしろバスケ界の宣伝になるという効果まで計算していた。

 過去にいくつもの会見を経験し、修羅場に慣れている川淵ならば、カメラの放列にも怖気づくことはない。だがbjリーグの幹部、クラブ経営者は気勢をそがれたに違いない。

 境田は言う。

 「横で見ていて『これ、どうなるんだろう?』と思って、もうハラハラですよね。みんなどう反応していいんだろう?って、ほとんど下を向いていた。恐ろしかったですよ」

 しかしbjリーグの代表者会議は川淵のペースで進んだ。境田は振り返る。

 「大した質問はなかったですね。『5000人のアリーナはなかなか難しいんですけど』とか『階層性になったら、2部から1部に上がれるんですか』とか。質問をすればするほどそれが前提になっていく部分があるんです。だから川淵さんは天才だなと思った」

 様子見だったbjリーグの各クラブも、新リーグ構想と退会を受け入れていくことになる。この日をもって、bjリーグの消滅が実質的に決まった。

「企業名をつけるなら3000万円ください」

 クラブの呼称、通称から企業名を外すべきかどうかも、新リーグ設立にあたる1つの争点だった。

 川淵はJリーグ発足時にも、企業と対峙している。しかしJリーグが開幕した1993年とBリーグ発足が決まった2015年ではプロスポーツを取り巻く状況が変わっていた。社名を名乗るプロ野球さえ地域密着の動きを強め、ファンへ歩み寄る経営に変わっている。企業名の名乗りを許したからと言って、Bリーグの理想が大きく揺らぐことはなかっただろう。

 ただし川淵はある条件を提示していた。

 「企業名がついているところは3000万くださいという内容を非公式に言っていた。トップに直接でなく、クラブの責任者にその旨を伝えて、専務クラスの人と会ったりするときにもそんな話をしていた。あのとき5チームあったから1億5000万円。予算の中に入るからそれでよしにするかと思った」

 これが意外な展開を呼ぶ。各社のトップが次々に企業名を出さない意向を表明し、BリーグはJリーグと同じ「地域名+愛称」の組み合わせが定着した。

直球勝負

 日本協会の会長となった川淵は権限を移譲しつつ、Bリーグの意思決定にも要所で関わっていた。事務局長だった葦原一正は、著書『稼ぐがすべて Bリーグこそ最強のビジネスモデルである』(あさ出版)の中でこう明かしている。

 「会議をひとつ例にとると、絶対に時間に遅れない。ややもすると誰よりも早く席に着く。そして『聞く力』と『話す力』のバランスが絶妙で、発表者に対して絶対に『え、今、何と言ったの?』と聞き直さない。それだけ会議に集中している証拠である。また、重要な決断も早く、意見を言うときは多くを語らず、ストレートな思いを人の目を見ながらぶつけてくる。直球ゆえ理解しやすいのである。

 そして会議の最後には必ず『みんなのおかげでB.LEAGUEは順調だ。ありがとう』と感謝の言葉を忘れない。

 日々の所作、そして決断力。重要な案件になればなるほど決断を苦手としているリーダーは多くいる。開幕までの時間がないB.LEAGUEにとって、決断力がないリーダーは致命的。川淵さんはあいまいにすることなく、その場で決めてくれた。また、川淵さんは方向性を提示する際、必ず『根拠』も添える」

日経ビジネス電子版 2021年2月15日付の記事を転載、一部改訂]

関係者の証言で綴るバスケ界の奇跡

 オリンピックなどの国際舞台から締め出されるという、前代未聞の危機に陥った日本のバスケ界が、Bリーグの発足で生まれ変わるまでの激動を追ったノンフィクション。関係者の証言を基に、日本のスポーツ界が抱えるガバナンスの問題と改革の可能性を浮き彫りにする。
 「これだけ正確に、リーグ分裂から合流までの詳細にわたるバスケットボール界の歴史が描かれたのは初めて。統一プロリーグ誕生の秘話として、長く後世に伝えられるほどの価値がある」(川淵三郎氏)

 大島和人(著)、日経BP、1870円

大島和人(おおしま・かずと)
1976年生まれ。大学在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道との関わりを持つ。卒業後は損害保険会社、調査会社などに在職。2010年のライター活動開始後はバスケットボールやサッカー、野球などを取材。試合や選手に関する発信はもちろん、スポーツ界の制度設計、クラブ経営など「コート外」の取材に力を入れている。