中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

長松院と十念寺(芭蕉の道を歩く 38)

2014年06月15日 15時02分20秒 | 芭蕉の道を歩く
(長松院の門)


(奥の細道【九】須賀川 1)
可伸庵跡を出て本来なら、案内のある十念寺へ向かうのが良さそうであるが、
地図では長松院が近くにあるので、そちらへ先を急ぐ。

車を置いた市庁舎跡に戻り、
そこから長松院まで北へ歩いて数分で到着する。
入口には、大きな石柱があり、右手に万年山、
左側の石柱には長松院と刻まれており、
内側はかなり広くとられていて、車の駐車場になっている。
寺院らしく、鐘楼が見えるその脇に自分の車を駐車させてもらう。
資料では、ここに相良等躬のお墓があることで知られる。
(長松院門前で鐘楼が見える)

(長松院の門柱)

(長松院の山門)

(本堂)


芭蕉は、奥の細道で、
すか川(がわ)の駅(えき)に等躬(とうきゅう)といふものを尋(たづね)て、
四・五日とどめらる。先(まづ)「白河の関いかにこえつるや」と問う。
「長途(ちょうど)のくるしみ、
身心(しんじん)つかれ、且は風景に魂うば々れ、
懐旧に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。

・風流の 初やおくの 田植うた

無下(むげ)にこえんもさすがに」と語れば、
脇(わき)・第三(だいさん)とつづけて三巻(みまき)となしぬ。)

と書いている。

須賀川の相良等躬を訪ねて、芭蕉は一週間も泊まっている。
よほど居心地が良かったに違いない。
等躬に「白河の関越えには、どんな句をお詠みになったのですか」と尋ねられている。
長い道のりを旅してきて、身も心も疲れ、また風景に見とれ、
白河での詩人たちの感慨が身に沁み、腸もちぎれる思いがして、
俳句を詠むまで思いがめぐりませんでした。とは言えと、
・風流の初めや奥の田植うた
の句を挨拶代わりに詠んだ。
長松院の門をくぐり、本堂に近づくと左手に等躬の句碑と墓所の案内がある。
句碑には
・あの辺ハ つくばね山哉 炭けふり  等躬
(等躬の墓所の案内と句碑)

(等躬の墓所の案内)


案内に沿って右へ行き、本堂裏手に向かう。
裏手には真新しい無縁仏の墓を積み上げたような巨大なピラミッドがあり、
最上部にはお釈迦様であろうか、銅像が建っている。
その裏手に相良等躬のお墓がある。
立派なお墓で、相楽家の代々のお墓が並ぶ一画に、等躬のお墓はあった。
上部に「心」の文字があり、その下に、「公雄萬帰居士」
隣に妻の「安室喜心大姉」の」法名が並んでいる。
(無縁仏か真新しいピラミッド)

(相楽家の墓)

(等躬の墓)

(十念寺の案内)


可伸庵跡に戻って、十念寺へ向かう。
古い宿場町であったはずの町には、新しい建物が多く、
案内地図にある家は、建物が新しく建て替えられているものや、
無くなって更地になっているものもある。
これも三年前の地震による影響であろう。

十念寺の手前には割烹旅館でもあったのであろうか、
古い案内地図には、××楼があるはずが、更地になっていて、
その道向こうに十念寺はあるはずが、
お寺らしきものは見えるが、石柱には文字もなく、
石柱に上にも笠がない。

しかし、十念寺はここしか考えられないので、無名の石柱の門を入る。
参道右手の植え込みの中に「十念寺」の控え目の小さな石柱がある。
その横に芭蕉の句碑はあった。
・風流の はじめや奥の 田うゑ唄   はせを
とある。

左手に市原多代女の辞世の句碑
・終に行く 道はいづくぞ 花の宴   多代女
とある。
(市原多代女は須賀川出身の江戸末期女流俳人知られているという。
芭蕉の句碑はこの多代女によって建立された。)(須賀川市)とある。
(十念寺の石柱)

(十念寺の文字も傘もない門柱と本堂)

(芭蕉句碑)

(市原多代女の辞世の句碑)


十念寺を出て、芭蕉が尋ねた「石河の滝」別名「乙字が滝」へ向かう。



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