平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

【絵画-22】フランス写実主義の画家ギュスターヴ・クールベ1819-1877

2021年04月05日 | 絵画 音楽 映画

フランス写実主義の画家ギュスターヴ・クールベは独学でドラクロアやレンブラントの模写を繰り返したが、3年連続でサロンへの出品が叶わずに24歳で「絶望」という自画像を描いた1843年。この頃に通い詰めたのが知識人のたまり場で、ボードレールやプルードンなどの哲学者と議論を交わしながら混沌とした現実を描いていた。「ブラッスリー・アンドレール1848」オルナンの埋葬1849年は故郷で葬儀に集う無名の人々を描いたものである。しかし伝統的な美を重んじるサロンから酷評に晒された。この頃1852年のフランスはナポレオン3世が即位、市民体制が終わり帝政に戻ったときで、スキャンダラスな作品「浴女たち」を発表。そして1855年パリ万博では「画家のアトリエ」という作品を準備するが出品拒否された。画面の左側半分には強欲な商人や貧しい人々などフランス社会を描いた問題作であったからだ。するとクールベは万博会場の近くに小屋を建てて個展を開いたのである。これが写実主義:レアリスムの始まりである。つまり体制に阿ることなく堂々と立ち向かう信念を絵画に表現する主義である。

当時のフランスは1848年の2月革命で民主的体制がとられると思ったがクーデターによってナポレオン3世が大統領となって専制政治が復活したという背景がある。こういった第二帝政に対するアンチテーゼが描かれているのである。強欲な商人として描かれているのはユダヤ人でありナポレオン3世であると言われているらしい。クールベのパトロンはアルフレッド・ブリュイヤスという銀行家で、「出会い」の中に描いている。クールベが40歳の頃は鉄道の発達もありノルマンディーはリゾート地として発展していた。この地にクールベも出向き浜辺という社交の場を描いたが、リゾートとはかけ離れた荒々しい波ばかりを描いた(パレットナイフ技法)。これらの絵はサロンから絶賛された。この頃、19才のクロード・モネ1840-1926と出会う。二人はエトルタ海岸を訪れ、「嵐の後のエトルタの断崖1870」を繰り返し描いた。モネがこの場所で印象派の連作を描いたのは、20年後の事である。

クールベ50歳の頃、フランス芸術が遅れをとるのは政治の責任だとする運動がパリコミューン(パリの自治市会)による暴動にまで発展し、志望者としてクールベは捕らわれた。パリコミューンの仲間が処刑されるなか、クールベは禁固半年、30万フラン:罰金3億円もの・・かくしてスイスに亡命して借金を返済するも酒におぼれて4年後に帰国することなく死去した。

 

@1860

コメント    この記事についてブログを書く
« Yui@大阪-4 | トップ | 【日本の疲弊-19】 日本の大... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

絵画 音楽 映画」カテゴリの最新記事