史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伊勢崎

2016年01月09日 | 群馬県
(養寿寺)
 国定町の養寿寺に国定忠治の墓がある。境内には、忠治の遺品を展示する記念館も併設されているが、シャッターが下りていて、拝観することはできなかった。事前に連絡しておく必要があるのかもしれない。


養寿寺


長岡忠治之墓

 墓地には国定忠治の本姓である長岡忠治之墓と刻んだ巨大な石碑が建てられているので、直ぐに場所は分かる。周囲には縁戚と思われる長岡家の墓が多い。
 巨大な石碑の左手に、鉄柵に囲われた墓があるが、これがホントの忠治の墓である。博才のあった忠治にあやかろうと墓石を削る人が続出したため、柵で囲ったらしいが、時既に遅し。墓石の表面は削られ、文字らしきものは何一つ読み取ることはできない。


長岡院法誉花楽居士
(国定忠治の墓)

 国定忠治は、関所破りや縄張り争いを繰り広げる一方で、飢饉の際には私財を擲って窮民に施したといわれる。小説や講談の世界で、虚実ないまぜの姿が伝えられており、本当の姿が見えにくい典型的人物である。もう少し勉強してみたい。

(善應寺)


善應寺


遊道花楽居士 情深墳
(国定忠治の墓)

 国定忠治の墓は、伊勢崎市内にもう一つある。JR伊勢崎駅に近い善応寺である。
 善応寺の墓は、忠治の愛妾であった菊池徳が刑場より遺体の片腕を持ち出し、この寺に埋葬したものと伝えられる。「情深墳」とよばれる墓石の表面には戒名「遊道花楽居士」、裏面には「念佛百万遍供養」とある。

(三ツ木墓地)
 忠治の命を受け、島村伊三郎を斬殺した三ツ木文蔵の墓である。


三明通達信士
(三ツ木文蔵の墓)

(島村伊三郎の墓)
 伊勢崎市境島村は、群馬県と埼玉県との県境に位置している。島村伊三郎の墓のある墓地に近づくと、カーナビが、頻りに「群馬県に入りました」「埼玉県に入りました」とアナウンスを繰り返した。


蓮清浄花信士
(島村伊三郎の墓)

 国定忠治と争った博徒島村伊三郎は、忠治の子分三ツ木文蔵に殺された。

(勘助勘太郎の墓)
出発の時点で何となく腹の調子がおかしかったが、ほどなく激しい下痢が始まり、パーキングエリアごとにトイレに駆け込むような状態であった。本当はもっと遠方へ向う予定にしていたが、急遽予定を変更して近くから回ることにした。天気予報では群馬県は曇となっていたのだが、途中から小雨が降り出した。体調も天気も悪い、最悪のコンディションであった。
中嶋勘助が浅次郎に襲われた時、その場にいた子の太郎吉(当時二歳)も斬殺されている。講談や芝居の世界では、太郎吉は勘太郎と名を変え、浅次郎(こちらも講談や芝居では浅太郎)に助け出される。このとき歌われるのが「赤城の子守唄」である。


勘助(左)勘太郎(中)の墓

勘助勘太郎父子の墓は、伊勢崎市上諏訪町の墓地にある。左手に勘助の墓。中央の小さな墓が太郎吉のものである。太郎吉の墓には「天保十三寅年九月八日、覚然童子三室村中島太郎吉」と記されている。右手の墓は、母親みきのものだろうか。父子の墓の周囲には、親子地蔵や赤城の子守唄碑が建てられている。幼くして凶刃に命を奪われた太郎吉の不運に涙を禁じ得ない。


勘助勘太郎 延命親子地蔵尊


赤城の子守唄

(長安寺)
この日の最初の目的地は、伊勢崎市西小保方町の長安寺である。墓地に歴代住職の墓が集められており、その中に考伝の墓がある。「国定忠治」(高橋敏著 岩波新書)によれば、その台座に三室の勘助こと中嶋勘助の名前が刻まれているとあるので確認してみたが、長年の風化と苔でよく読み取れなかった。


長安寺


竪者法印考傳大和尚位(考伝の墓)

中嶋勘助は、この土地の名士だったようで、考伝の跡を継いだ長安寺住職憲海が、商家の娘を寺中に入れて子供を産ませたり、先住考伝の法要を行わず、墓も建てないなど、目に余る行状の数々に、これを寺社奉行に訴えている。勘助は江戸まで出向いて訴訟を戦い、その結果憲海は罷免流罪となっている。
勘助はその後関東取締出役の道案内となり、浅次郎をゆすったり、関東取締出役に田部井の忠治の賭場を襲わせたりしたため、忠治の怒りを買うことになった。天保十三年(1842)九月、忠治の示唆を受けた板割の浅次郎に斬殺された。なお、勘助と浅次郎は伯父甥の関係であった。四十三歳。

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