一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

『諦念後 男の老後の大問題』 ……65歳で死去した小田嶋隆の幻の連載コラム……

2023年02月23日 | 読書・音楽・美術・その他芸術


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本書『諦念後 男の老後の大問題』は、
2022年6月24日に65歳で亡くなったコラムニスト・小田嶋隆の、


集英社の読書情報誌「青春と読書」に連載した、


「諦念後 男の老後の大問題」(2018年7月号~2019年10月号)を、
1冊にまとめたものである。


【小田嶋隆】(おだじま・たかし)
1956年東京赤羽生まれ。
早稲田大学卒業。
食品メーカー勤務などを経て、テクニカルライターの草分けとなる。
国内では稀有となったコラムニストの一人。
著作は、
『我が心はICにあらず』(BNN、1988年、のち光文社文庫)、
『パソコンゲーマーは眠らない』(朝日新聞社、1992年、のち文庫)、
『地雷を踏む勇気』(技術評論社、2011年)、
『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社、2012年)、
『ポエムに万歳!』(新潮社、2014年)、
『ア・ピース・オブ・警句』(日経BP社、2020年)、
『日本語を、取り戻す。』(亜紀書房、2020年)、
『災間の唄』(サイゾー、2020年)、
『小田嶋隆のコラムの向こう側』(ミシマ社、2022年)など、多数ある。
また共著に、
『人生2割がちょうどいい』(岡康道、講談社、2009年)、
『9条どうでしょう』(内田樹・平川克美・町山智浩共著、毎日新聞社、2006年)などがあり、
2022年、はじめての小説『東京四次元紀行』(イースト・プレス)を刊行。
同年6月24日、病気のため死去。



死因は「病気のため」としか発表されていないので、
何の病気で亡くなったのかは判らない。
この本の目次に、
「自分は永遠に健康だと思っていたら、脳梗塞で入院してしまいました」
というタイトルがあるので、
脳梗塞からくるものであったかもしれないし、(脳梗塞で複数回入院している)
2019年4月8日の自身のTwitterで、

体重が減っているのも気になる。たいして努力しているわけでもない(なんとなく気にしてはいる。その点はこの10年ほど変わらない)のに、昨年の10月以降で7キロほど減っている。「体重が減って喜んでいたらガンでした」という人間を二人ほど知っているので、ちょっと心配している。

とつぶやいていたので、ガンだったのかもしれない。
2021年8月13日のTwitterでは、

7月27日に救急車で搬送されてあれこれ検査と治療をして、1週間後に転院して、それから約10日間の入院になりました。ともかく無事退院できてほっとしています。
詳しい事情は説明しません。
説明しない理由は、当然のことながらtwitterの中の人たちを信用していないからです。


と病名を公表しない理由もつぶやいている。
反権力の立場で世相を斬る論客として知られていたこともあって、
脳梗塞を患ったことを公表したとき、
やれ高次脳機能障害がどうしたとか、認知症が進行中とか、
この病気をネタにした罵倒や嘲笑が寄せられたらしい。
その苦い経験から、病名を公表しないことにしたようだ。


本書『諦念後 男の老後の大問題』の「あとがきにかえて」で、
配偶者だった小田嶋美香子は、こう記す。

先日、その亜紀書房さんより『諦念後』のゲラをお預かりし、あらためて読み直しましたところ、家族としては、何とも胸が締めつけられるような内容でありました。
というのも、意図したか意図せずかわかりませんが、それまでの文章ではなかなか見られない、等身大の隆氏が諦念へと向かう、さまざまな上にもさまざまな心の動きが、本人によって文中に描き出されていたからです。それも、結果的には亡くなる前、数年の。
冒頭に本人の言葉で、「当連載は、私自身に進行中の老化を実際の取材と生身の身体感覚を通じて紹介する生体実験」とあります。まさにこの連載をやることによって、隆氏は自分自身と向き合うことができ、ああだこうだ言いながらも、いいこともやなことも、いいけどやなことも、いやよいやよもいつのまにか好き、なことも、そして期せずして病を得てしまったことまでも、等身大の諦念として書き残すことができたように思います。


「模倣」から逃れたい一心で、
小田嶋隆はこれまで、
「取材をしない」「文献を読まない」
をコラムニストとしてモットーとしてきたが、
「私自身に進行中の老化を実際の取材と生身の身体感覚を通じて紹介する生体実験」
をするために、2つの原則を捨ててまで「体当たり取材」し、執筆した本作は、
ある意味、貴重なコラム、いや、ルポルタージュと言えるかもしれない。


そうして読了した本書『諦念後 男の老後の大問題』は、
とても面白く、と同時に、「老化」を体験中の私にとっては身につまされる内容であった。
著者がすでに亡くなっているという事実を前にすると、
「遺言」としても読めるかもしれない。

定年は勤め人にだけやってくるものではない。フリーランスで働いている人間であれ自営業であれ、勤労という「現役」から外れる時期はいずれやってくる。(10頁)

著者は、「定年」をこのように定義しているが、
定年後も働いている者もいるので、「第一線」から退いた……という意味合いで使われるのが最適かもしれない。

本書は、【目次】の項目からして、面白い。

1………定年後のオヤジたちは、なぜ「そば打ち」をするのか?
2………定年男はギターを買ってみた。非モテだった青春時代を取り戻すために。
3………逆三角形の体の自分になりたくて、スポーツジムに通ってみた。
4………過去を清算しようと思って、「断捨離」をしてみた。
5………立派な死に方だったと言われたくて、「終活」をしてみた。
6………卒業後40年を経て、同窓会に出席してみた。
7………ひまつぶしのために麻雀を打ってみた。
8………職人を志して、鎌倉彫をやってみた。
9………しがらみから逃れられなくて選挙に出てみる。
10……植物の魅力に目覚め、盆栽をはじめてみた。
11……バカな虚栄心とわかりつつ、大学講師をやってみた。
12……自分は永遠に健康だと思っていたら、脳梗塞で入院してしまいました。
13……実りある無駄話をするためにSNSをやってみた。
14……定年後、何歳まで働けばいいか考えてみた。
15……「がん」での死に方に思いを巡らせてみた。


定年後のオヤジたちは、なぜか「そば打ち」教室に通い、
(短期間で)一流の「そば打ち」になったつもりになって、
退職金をなげうって店を開いたりする。そして大抵失敗する。(笑)
定年男たちは、
青春を取り戻すかのように「ギター」をつまびき、
体力の衰えを取り戻すかのように「ジム」に通い、
身軽になるために「断捨離」をし、
“死”までも自分でコントロールすべく「終活」をする。
前期高齢者以降の人には、どれもが身に覚えがあることであろうし、
苦笑させられる。

そして、本書には、定年男たちへの金言に満ちあふれている。
いくつか紹介する。

老後で大切なのは、単純作業に身を投じることだ。
なんとも凡庸な教訓だが、凡庸でない教訓など信じるには値しない。なんとなれば、男がトシを取るということは、自分が積み上げてきた凡庸さと和解することだからだ。
(17~18頁)

「知ってますか? ああいうところ(スポーツジム)はね。来ない人の会費で成り立っているんですよ」
「はあ?」
「だからね。登録している人が全員マジメに通って来ると、ジムは経営が成り立たないということです」
(40頁)

断捨離派の人々は、モノを整理し、ブツへの執着を捨て、生活をシンプルに設計し直すことで、性格が改善され、人生を再出発でき、過去から決別できると主張している。
しかし、実際にそれを実現できる人間は稀だ。多くの断捨離実行者は、自分が捨ててしまったモノへの未練に苦しみ、廃棄という行為の後ろめたさに悩んでいる。
(52頁)

……何を言いたいかというと、私は、死への準備を怠ると、遺族がひどい目に遭うぞというお話をしている。結局、死というのは、本人にとっては一瞬の通過点でも、残された人間にとっては、膨大な残務処理の集積体となるのである。
とすれば、われわれは、自分のためにではなく、もっぱら遺族のために、自分の死をあらかじめ処理しておくべきだというお話になる。
その、自分の死をあらかじめ処理しておく作業が、今回の主題である「終活」ということになる。
(66頁)

……結局、あらゆる枠組みの同窓会に私の居場所はなかった。
収穫は、女子の話がおしなべて面白かったことだ。
彼女たちは、様々な人生を様々に乗り越えた中で、それぞれに柔軟な個性を身に付けている。高校時代はほとんど話をしたこともなかったし、正直な話、いけ好かない女どもだと思いこんでいた。
ところがどっこい、40年ぶりに話をしてみると、威張るばかりの男たちと違って、女子のメンバーたちは実に素晴らしいホスピタリティーを自分のものにしている。
ただ、残念なのは、時の流れの残酷さだ。
われわれは、すでに60歳を過ぎてしまっている。
これでは間違いの起こりようもない。
せめてもう20年早く再会できれば、多少は状況が違っていたことだろう。
かえすがえすも残念だ。
というわけで、結論。
同窓会はせめて40の坂を超える前に企画しよう。
(87~88頁)

「病を得る」
という言い方がある通り、病気は福音でもある。健康を奪い、日常を停滞させるだけのものではない。むしろ私のような初心の高齢者にとって、生活のペースを適正な水準にスローダウンさせるための教育係の役割を担ってくれている。
(162~163頁)

特定の何かを断念した諦念者は、諦めることによって同時に、手に入るものだけで満足する心の豊かさを獲得するのだ。(163頁)

誰もが病気になり、最終的に全員が死ぬことが、あらかじめわかっている以上、われわれが目指すべきは、死なないことではない。われら諦念者の目指すべきところは、機嫌よく病むことだ。とすれば、快適に病むにあたって、医療とはぜひ和解すべきだ。
ついでに言えばだが、死ぬことに関して特段の心構えはいらない。生きてさえいれば必ず死ねる。心配は無用だ。
(170頁)

SNSは、恥ずかしいものだ。
「個人」を出発点として、「社会」を志向する以上、その交流の場であるSNSは、独白と告白と自己表白を含んだ盛大な自分語りを含まざるを得ない。とすれば、そこでやりとりされる対話は、強烈にこっ恥ずかしい毛づくろいになる。
もっとも、どんな人間関係でも同じことだが、恥ずかしさを含まない相互関係はそもそも、参加メンバーを慰安しない。そして、当然のことながら、そんなクールで理知的で没個性的なつぶやきは、娯楽として成立しない。
つまり、われら現代人というのは、恥ずかしいからこそ夢中になるという、どうにも恥ずかしい人間たちなのである。
(174~175頁)

私が、同年代の諦念者にSNSへの参入を強く勧める理由は、ただでさえ口数の減る幼年高齢者にとって、インターネット上に設置されたデジタルな交換日記兼サークルノートが、重要な無駄話の足場になるはずだと考えるからだ。
無駄話をしない人間は、急速に老化する。
(175頁)

諦念者が有利なのは、炎上したところで、たいしたリスクがない点だ。炎上で失われるのは、会社員としての外聞であったり、公的な役職にある人間としての声望だったりするのだが、現役世代の皆さんはそうした失って困るものを抱えている。一方、われわれはすでにそういうものを持っていない。(183頁)

カネのために働いている限り、大きな間違いはない。
カネが稼げれば万々歳だし、職場で多少面倒くさいことがあっても、カネのためならなんとか耐えられる。
一方、生きがいなんぞのために働いている人間は、どこまでも搾取される。「生きがい搾取」「働きがい搾取」というのは、ちょっと前までは自分探しをしているクソ甘ったれた若者をたぶらかすブラック企業について言われていた言葉だったのだが、これから先は「定年後の生きがい」みたいな常套句を口にする老人をハメ込むためのメソッドになるはずだ。
(196~197頁)


「ジジイだって、歳を取るのは初めての経験なのだ」
と、自身の老いていく過程までをもそのまま開陳し、
病気で入院して検査を受けたり、
身体が衰弱して連載を休んだりしたことも、
隠さずに記している。
連載11回と12回の間に、(体調不良による)休載2回を挟んでおり
12回の「自分は永遠に健康だと思っていたら、脳梗塞で入院してしまいました」以降は、
(客観的、俯瞰的に見た意見が多かった)それまでの11回とは違い、
より本音を語っているようにも感じた。
老人初心者にとって、心強い味方となる一冊だと思う。

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