一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『DESTINY 鎌倉ものがたり』……高畑充希の笑顔と、安藤サクラの存在感……

2018年01月07日 | 映画


山崎貴監督作品の『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズが好きで、
『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005年11月公開)
『ALWAYS 続・三丁目の夕日』(2007年11月公開)
『ALWAYS 三丁目の夕日'64 』(2012年1月公開)
と楽しんできたのだが、
3作で終わってしまい、残念に思っていたところ、
原作が『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズと同じ西岸良平のコミックで、
タイトルも似ている『DESTINY 鎌倉ものがたり』が昨年(2017年)末に公開された。
監督はもちろん山崎貴。
主演は、堺雅人。
ヒロインに、高畑充希。
その他、『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズでお馴染みの、
堤真一、薬師丸ひろ子、三浦友和、神戸浩などが顔を揃えており、
私の好きな安藤サクラや田中泯も出演しているという。


〈見なければ……〉
と思った。
で、師走の忙しい時期であったが、
仕事帰りに映画館へ駆けつけたのだった。



一色正和(堺雅人)は、
鎌倉に暮らすミステリー作家である。


彼のもとに嫁いだ年若い妻・亜紀子(高畑充希)は、
その鎌倉での生活に驚くばかり。


道を歩けば、魔物や幽霊、妖怪や仏様、死神(安藤サクラ)までも現れるのだ。


どうやらここ鎌倉は、人と人ならざるものたちが仲良く暮らす街らしい。


本業の小説執筆に加え、鎌倉署の捜査にも協力する夫・正和は、


その上、鉄道模型収集やら熱帯魚飼育やら多趣味でもあり忙しい。


そんな一色家には、
実年齢130歳? の家政婦・キン(中村玉緒)、


腐れ縁の編集担当・本田(堤真一)、


果ては貧乏神(田中泯)が居座るなど個性豊かな面々が次々に現れ騒がしい日々。


亜紀子の理想とはちょっと違うけれど、楽しい新婚生活が始まった。


しかし、正和には亜紀子に隠していた秘密があった。
その秘密が原因で、正和は結婚に疑問を感じて生きてきたようだ。
正和はなぜ(かなり年下の)亜紀子を見初めたのだろうか?


ある日、病に倒れた正和が目を覚ますと、亜紀子の姿が消えていた。
夫への愛にあふれた手紙を残して……
なんと亜紀子は不慮の事故で亡くなっており、黄泉の国(あの世)に旅立っていたのだった。
失って初めて気づく妻・亜紀子への愛。
正和は亜紀子の命を取り戻すため、一人黄泉の国へ向かう決意をする。
そこで彼を待っていたのは、
亜紀子を黄泉に連れさった魔物たちと、あの人の姿だった。
一色夫婦の命をかけた運命が、今、動き出す……




前半は、
魔物や幽霊も仲良く暮らす街・鎌倉を舞台に、
正和と亜紀子のほのぼのとした新婚生活が描かれている。
これが長い。長すぎる。(笑)
激務で疲れた私の躰と脳は、
このほのぼのとした新婚生活で“寝落ち”しそうになった。(爆)
それが後半、(とは言ってもラストに近く、全体の4分の3が過ぎた辺りか……)
ある事情で亜紀子が幽霊になってしまい、
夫と別れて黄泉の国へ旅立ってしまう。
正和は亜紀子の命を取り戻すため、一人黄泉の国へ向かうのだが、
そこからやっと“VFXを駆使したファンタジー超大作”らしき様相を呈し、
眠気が覚めた。
そしてラストまで楽しく見ることができた。


この後半部分で、
〈なぜ私は亜紀子を見初めたのだろうか?〉
という正和が感じていた疑問が解決するのだが、
これが、なかなかグッとくる設定で、
愛し合っている者同士の強い絆を感じさせ、
もし、恋人や配偶者がいる人ならば、
相手の顔をまじまじと見直すかもしれない。
愛する人と見に行くと、感動は2倍になることだろう。


地味な主人公を演じている堺雅人は、
その人柄を感じさせる堅実な演技で文句はないが、
やはり、この映画をより魅力的なものにしているのは、
ヒロイン・亜紀子を演ずる高畑充希であった。
この高畑充希が実に可愛い。
原作では、小学生に間違われるというエピソードもあるくらい童顔で可愛らしい雰囲気の女性という設定であったが、それを十二分に実現していると思った。



原作ものに出演した経験はあまりないのですが、原作がある場合はまず原作を読んで一度頭から消す、という作業をするようにしています。原作を通して人物やストーリーに寄り添えることはとても大きなヒントになるのですが、縛られすぎてしまうのも悲しいし、共演する方々や監督と話して、メイクや衣装にも助けられながら、撮影現場で生まれるものを大切にしたいと思って臨んでいます。今回は役について分らないことが多く、どうしていいか自分の中でもあやふやでした。そこで、“亜紀子さんはとにかく正和さんが大好き”ということだけを考えよう! と、それだけ決めて現場に入りました。(『キネマ旬報』2017年12月下旬号)

と語るように、
〈正和さんが大好き〉
という気持ちがよく伝わるキュートな笑顔と仕草で、観客を魅了する。
幼い可愛らしさだけでなく、正和を包み込むような母性をも併せて感じさせくれ、
実に魅力的であった。


堺雅人、高畑充希以外では、
死神を演じた安藤サクラが強烈に印象に残った。


安藤サクラは私の大好きな女優であるのだが、
『0.5ミリ』(2014年)
『百円の恋』(2014年)
のような主演作はもちろんのこと、
『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』(2017年)や、
本作のような脇役であっても、独特の存在感を示す。
『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』では怪演であったが、
本作では、静かな演技であるにもかかわらず、
彼女にしか出せない不思議な雰囲気を醸し出しており、
安藤サクラという女優を死神にキャスティングしたことが、
本作を成功に導いた大きな要因であったと思われた。


もう一人、
貧乏神を演じた田中泯を忘れてはならない。
当初は、
〈この名優によく貧乏神などやらせたな~〉
と思っていたが、
この役を田中泯は難なくやってのけている。
これが実に好い味を出しおり、
見終えると、貧乏神の役は田中泯以外には考えられないほど適役であったと思わされた。


死神も貧乏神も、マイナスイメージで捉えることが多いが、
この映画を見て、
〈死神も貧乏神も案外悪くない……〉
と思わされたことが、大きな収穫であった。
そのことに、安藤サクラと田中泯の演技が大きく寄与しているし、
この二人のキャスティングなくしてはありえなかったことと思われる。


この映画『DESTINY 鎌倉ものがたり』では、後半、
黄泉の国が舞台となり、物語が展開するのだが、
そもそも、死後の世界、黄泉の国はあるのか?

昔、『人は死ねばゴミになる』(伊藤栄樹著、1988年、新潮社)というタイトルの本がベストセラーになったが、
人は死ねばゴミになる……では、あまりにも哀しい。
死後の世界、黄泉の国はあるかどうかは分らないし、
多くの知識人は「ない」と答える人が多いと思うし、
人は死ねば、ただゴミになるだけだ……と考える人も少なくないと思う。
だが、死後の世界は誰も分らないし、
どうせ分らないのなら、死後の世界を信じる方が、心が安らかになるような気もする。

哲学者・三木清(1897年~1945年)は、『人生論ノート』で、次のように述べている。

私にとつて死の恐怖は如何にして薄らいでいつたか。自分の親しかつた者と死別することが次第に多くなつたためである。もし私が彼等と再會することができる――これは私の最大の希望である――とすれば、それは私の死においてのほか不可能であらう。假に私が百萬年生きながらへるとしても、私はこの世において再び彼等と會ふことのないのを知つてゐる。そのプロバビリティは零である。私はもちろん私の死において彼等に會ひ得ることを確實には知つてゐない。しかしそのプロバビリティが零であるとは誰も斷言し得ないであらう、死者の國から歸つてきた者はないのであるから。二つのプロバビリティを比較するとき、後者が前者よりも大きいといふ可能性は存在する。もし私がいづれかに賭けねばならぬとすれば、私は後者に賭けるのほかないであらう。

執着する何ものもないといつた虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。執着するものがあるから死に切れないといふことは、執着するものがあるから死ねるといふことである。深く執着するものがある者は、死後自分の歸つてゆくべきところをもつてゐる。それだから死に對する準備といふのは、どこまでも執着するものを作るといふことである。私に眞に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する。


私も、どちらかというと、この三木清の考えに共感する。
「眞に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する」
とは、なんと美しい言葉だろう。
これは『DESTINY 鎌倉ものがたり』にも通じるものがあるような気がした。
何事にも真剣に取り組んでいる人、
真剣に人を愛したことのある人には、
感動させられる作品である。
映画館で、ぜひぜひ。


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