石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を出来る限り拓本を採りながら行っています。投稿は、実名でお願いいたします。

那須町の猪乗り、勝軍(将軍)地蔵(愛宕地蔵)の大きな像を見てきました

2016年03月22日 | Weblog

この像を見たくて何年が経ったろうか。少なくも10年以上も前に、その存在を知りながら愛宕山へ登る機会が得られぬまま歳月だけが過ぎてしまったが、今回は思い立って那須町へ出かけた。尤も、その前にどうしても調査と拓本が欲しい、黒羽町に所在する石碑だけは早朝からバッチリ行って、全てを為し終えてからからだったが‥。
今回の、この愛宕信仰に関わる石造物を追いかけていたのは、今から20年以上も前のことで、那須町へは足繁く通ったものだが、ここの所は年に数回の那須町訪問に終わっていた。
さて今回の調査は、そんな念願の石碑調査が終わった足で行ったので、愛宕山を登りだしたのは午後1時になってからのことである。麓は心地よい春の風が吹く程度だったが、山頂へ着いてみると結構な風が吹いていて、薄着で登って来た身にはその寒風が身に堪える。それでも山頂広場に、大きな石碑の中に鎮座するこの猪乗り勝軍(将軍)地蔵を目の当たりにすると、そんな寒さも何とやらである。像高本体だけでは55cmと大きい。左手に持つ錫杖は今は無いが、宝珠ははっきり判る。また、猪の像容にはどこにも傷がない。
それにしても、石室は大きなもので、ここに写真で見せられないのが悔しいくらいである。銘文は、その石室に刻まれているだろうと、まずは紀年銘から見てみると「天明元辛丑歳九月二十四日(愛宕信仰の当たり日)」となっている。紀年銘の判る那須町の猪乗り愛宕地蔵としては、那須町豊原乙の愛宕信仰地に見る享保五年(1720)に接ぐものである。また、反対側の側面を見ると信州高遠の石工名が記されていた。さて、ここで大笑いの出来事。それは、頂上でのんびりしようとザックにコーヒーやら茶菓子などを詰め込みながら、肝心な手拓用道具一式を入れなかった事。そのため、石工名の箇所一部がもう一つ確認できないので、それでは拓本を採ろうとして初めて道具一式の無いことに気がつくドンくささ。そこで仕方なく、ザックの底にある小さな墨と、使い切れの丸まった画仙紙をなんとか手に入れ、タンポはタオルを代用。今度は、苔を取り除こうとタワシの代わりに周辺に落ちている杉の葉を集めてそれでゴシゴシ。次は霧吹きだが当然ないので、仕方なしに飲み水を口に含んで口での霧吹き代用。そして水張り開始だが、何しろ山頂ゆえに風が吹きまくっていて、画仙紙を水張り用意しただけで吹き飛んで行ってしまう。一人で苦笑しながら、やっぱり無理だったと苦笑する以外に無かった。後は、写真に良く映ってくれていることを願うのみだった。もちろん、山頂でコーヒーを飲みながらのんびりするほどの風を避ける場所は無く、まさかお地蔵様を出して替わりに自分がその石室の中へ入るわけにも行かぬと、名残惜しくも忙しく調査を終えて下山する。
何となく、消化不足。そこで、車道へ出た反対側の崖の上には万歳型の青面金剛像容等が建立されているたのを思い出し(当時は、庚申塔には余り興味がなかったので写真等を撮っていなかった)、それを再調査しようと向かう。そして改めて眺めれば、それは当地方の庚申信仰塔としては古い方に入る宝永六己丑十月二十三日という庚申当たり日のものだった。その画像も、今回は未掲載としよう。
いずれにしても、この段階で午後も3時近い。後は途中途中で寄り道しながら宇都宮への田舎道を通って帰宅する。

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