背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

チャーリー・パーカーの半生(1)

2019年07月12日 10時44分41秒 | チャーリーパーカー
 チャーリー・パーカー Charlie Parker (1920~1955)。米国の黒人アルト・サックス奏者(時にはテナー・サックスも吹いた)。モダン・ジャズの創始者。愛称バードBird(あるいはヤードバード Yardbird )。1935年~1955年に活躍。1930年代に流行したスウィング・ジャズswing jazzを革新し、バップ bop あるいはビバップ bebop と呼ばれる独創的なジャズを演奏し、後進のミュージシャンに甚大な影響を及ぼす。ジャズ史上、最高の即興演奏家の一人であり、彼が作曲し自ら演奏した数多くの曲がジャズのスタンダード・ナンバーになっている。



 前置きはこのくらいにして、チャーリー・パーカーの生い立ちから書こう。参考書は、ロバート・G・ライズナー著「チャーリー・パーカーの伝説」(片岡義男訳、1972年、晶文社刊)とロス・ラッセル著「バードは生きている」(池 央耿訳、1975年、草思社刊)。参考資料は米国のウェッブサイトの各種記事。

 チャーリー・パーカーは、1920年8月29日、カンザス州のカンザス・シティ Kansas City フリーマン通り852番地で生まれた。本名はチャールズ・パーカー・ジュニア Charles Parker Jr.。パーカーの伝記・略歴には、正式名にクリストファーChristopherというミドル・ネームを入れたものが多いが、母アディは、そんなミドル・ネームはないと否定している(上記「チャーリー・パーカーの伝説」)。どうして、こうしたミドル・ネームが付いたかは今のところ不明である。ところで、チャーリー・パーカーが生まれた1920年は、第一次大戦が終わり(1918年11月)、米国で禁酒法が施行された年である。 

 父チャールズ・パーカー Charles Parker (黒人)はメンフィス出身(注1)で、ヴォードヴィル(軽喜劇)のダンサー兼歌手で、ピアニストでもあった。巡業でカンザス・シティにやって来て、この地に住みついたらしい。
 (注1)アディの話では「メンフィス出身」とあるが、「ミシシッピに生まれ、メンフィスで育った」としている資料もある。

 母アディ・ベイリー Addie Bailey は、黒人とチョクトー族(アメリカ・インディアンの種族)との混血で(注2)、地元の娘だった。17歳の時チャールズと結婚したらしい(注3)。
 (注2)母の旧姓は、ベイリーBaileyとも、ボクスリーBoxleyとも言われ、綴り字も公式書類によって相違があるようだ。また彼女の血統に関しては、米国版ウィキペディアの"Charlie Parker"に書いてあるが、出典は、Chuck Haddix著 "Bird: The Life and Music of Charlie Parker"(2013年)だという。
 (注3)ラッセル著「バードは生きてる」にあるが、ラッセルのこの本は、伝記小説でフィクションが多いため、事実かどうかの検証が必要だと思う。


 母アディの話から推察すると、チャールズは再婚だったらしく、先妻(?)との間にジョン John という男の子がいた。チャーリーより2歳年上だったという。アディがどういう事情でジョンという連れっ子を育てるようになったかは不明だが、実子のチャーリーが誕生した後も、パーカー夫妻は二人の男の子をいっしょに育てたようだ。アディは二人をまったく平等に扱ったそうで、兄ジョンは弟と腹違いだとは気づかないまま大きくなったらしい(注4)。異母兄ジョンはのちに郵便局に勤め、カンザス州のカンザス・シティに住んでいるという。チャーリー・パーカーは「ひとりっ子」という記述や談話もあるが、厳密に言うと「ひとりっ子」というのは事実ではないようだ。
(注4) 母アディは、ジョンの実母のことや、いつごろまでジョンを育てたのかについては、何も話していない。夫チャールズがジョンを産ませた女性というのはまったくの謎で、結婚していたのか、あるいは愛人だったのかも不明なのだ。アディが結婚した時、ジョンは1歳かそこらの赤ん坊だったわけで、この点も大変疑問に感じる。

 父チャールズは、踊りもうまく教養もあったので、女に大変もてたのではなかろうか。また、大酒飲みで、決して良い夫ではなかった。家に帰らない日も多く、給料は女と酒に遣ってしまうしまったようだ。それで、母アディは、掃除婦や家政婦の仕事をして、家計を補わなければならなかった。彼女が働いている時間、幼いチャーリーはカトリックの学校(保育園か?)に預けられたという。


<チャーリーが2歳頃かと思われる>

 チャーリーが7歳の頃、一家はミズーリ州のカンザス・シティの市街地へ引っ越す。カンザス・シティはミズーリ河を境にカンザス州とミズーリ州の二つの州にまたがっていて、ミズーリ州側の方が人口密度も高く、栄えていたようだ。引っ越した家(注5)はダウンタウンの黒人居住地区にあり、歓楽街の近くだった。チャーリーはクリスパス・アタックス小学校(パブリック・スクール)に通う。母アディの話では、学校の成績は上々、活発で、教師たちに好かれる模範的な生徒だったという。
 (注5)ミズーリ州側のカンザス・シティへ引っ越した時の最初の家はウェストポートWestportの辺りで、その後、オリーヴ通り1516番地の木造二階建てのこの家(借家)へ引っ越してきたようだ(米国版ウィキペディア)。

 1920年代半ばを過ぎると、庶民の娯楽が変化し、オペレッタやヴォードヴィルといった軽演劇や演芸の人気が下がり、映画、レコード、ラジオが流行。父チャールズは仕事にあぶれることが多くなり、サーカスの一座に入って旅回りをしたり、一時期は、鉄道会社に勤め、食堂車の給仕やコックをやってみたが、長続きしなかったようだ。そのうち、家を出て、別居してしまう。チャーリーが9歳か10歳の頃である。

 チャーリー・パーカーが父チャールズのどういった所を受け継ぎ、また父からどういう影響を受けたかについては分からない。容姿、素質、性格は当然似ていたのだろうが、チャーリーはもしかすると、父親の芸人肌の自由奔放な生き方に何か憧れのようなものを感じていたのかもしれない。反面教師として父親に反発し、まったく違った生き方を選ぶ子どもも多いが、チャーリー・パーカーの場合、父と同じミュージシャンの道を選んだだけでなく、家庭を顧みない放浪癖、女性遍歴、酒飲み、金遣いの荒さなど、後年の彼は、父とそっくりである。幼い頃チャーリーは、父親のピアノや歌を聴いたこともあっただろうし、音楽の話もしてもらったにちがいない。また、父は読書家であった。母アディの話では、チャーリーは地下室にたくさんあった本(父の蔵書だろう)をよく読んでいたという。「彼は(亡くなった)父親を敬愛していた」というチャーリーの三度目の妻ドリスの証言もある。実は、父チャールズは、家出した後、暗黒組織と関り、ポン引き、賭博師などをやり(注6)、後年、チャーリーが17歳の時、女に刺殺され、非業の死を遂げしまう(注7)。
 (注6)ラッセル著「バードは生きている」には、「シンジケートの手先の賭博師として日向を歩くことはない男になっていた」とある。
 (注7)母アディの話では、「酒に酔った喧嘩で、どこかの女に刺された」そうで、「シカゴにいたチャールズに連絡をとり、葬式につれてかえりました。大量に出血して死んだので、遺体は目もあてられない状態だった」という。

 一方、母アディは、キリスト教徒(バプテスト派)で、愛情のすべてを注いでチャーリーを育てた。女手一つで母子家庭を支え、勤勉で我慢強く、気丈だった。彼女は音楽には無縁で、息子が将来医者になることを夢見ていた。(つづく)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿