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映画「亡国のイージス」後編

2016-01-07 | 映画

さて、この映画が原作である小説を読まずには到底理解できない、
という部分は多々あれど、本日タイトルにしたシーンほど、
映画だけでは訳が分からない部分もないかと思います。

米軍基地の爆発跡から毒ガス兵器「GUSOH」を強奪した北朝鮮の工作員、
ホ・ヨンファとその一味は、防衛省の人事部課長の弱みを握って脅迫し、 
護衛艦「いそかぜ」の幹部を決行グループで固めた艦長(映画では副長)宮津を
利用して自分たちの計画を実行に移さんとします。

その後護衛艦「いそかぜ」にアクアラングで海中から乗り込んでくる謎の女、ジョンヒ。
映画ではヨンファの妹、ということになっているので、二人の関係はあくまでも
肉親愛で結ばれているという表現に終始している訳ですが、
そのジョンヒが、DAISの諜報員として「いそかぜ」に送り込まれた
如月行と海中で格闘しながら、なぜかキスをするシーンがあります。

この場面は、彼女が宮津の妻と行の母以外では紅一点の出演者なので、
一種のサービスシーンなのか?と最初に見たときにわたしは思いました。
それにしても全く伏線がなく、あまりに唐突な表現で、違和感ありまくりです。


この件についてネットで検索したところ、某知恵袋で


「相手の口を塞いで息を奪い、窒息させるためである」

という答えを堂々としている人がいました。
大変納得のできる答えですが、実は、このシーンには小説を読んでいなければ
全く理解できない背景があったのです。


まず、ヨンファは両親を民衆の暴動で惨殺されたのち、
工作員リン・ミンギの元で育てられ、ジョンヒも「不義の子」として
不幸な幼年時代を過ごしているところを、素質を見込まれてミンギに拾われました。 

つまり彼らは血の繋がっていない義理の兄妹なのです。

ジョンヒは対南作戦の地雷で声帯を吹き飛ばされ、韓国安企部の虜囚に身を落とし、
凄まじい拷問を受けて廃人になる寸前、ヨンファに救出されました。

それゆえ血の繋がり以上の濃密な関係を持っていますが、
地獄の深淵と生命の限界を見たジョンヒは、それゆえ義理の兄に対しても、
自分とともに戦う、自分以上に強い男であることしか求めていないのです。


映画ではご予算と時間の関係でばっさりカットされている部分ですが、
原作では航空機が爆破され、墜落するという事故が彼の計画によって起こされます。

「GUSOH」を移送する米国機を爆破してそれを奪い、それを「いそかぜ」の
ヨンファの元に届けたのは、このジョンヒでした。

こんな生死をかけた命令を兄から受けることも、ジョンヒにとっては
愛情表現のようなもので、死の淵に立ったときに全身を駆け巡る
アドレナリンによって、彼女は初めて生きていると実感できるのでした。

「革命を成功させたらお前をあたらしい朝鮮国家の女王にする。
そして縁故も袖の下も通用しない、公平で貧困のない世界を作る」

そうヨンファはジョンヒに語ります。
そのジョンヒが如月行の「強さ」に惹かれているのを、言葉を超越したところで
彼女と分かり合えるヨンファは鋭く気づき、嫉妬の炎と殺意を燃やすのでした。




その後、如月行と先任伍長、そしてなにより日本政府は、ヨンファの思ったより

ずっと手強く、計画もそうは簡単に思い通りにならないことがわかります。

これも映画には出てきませんが、政府はEODからなる特殊部隊を

海面をレーダーを逃れるように接近させ、艦の破口から制圧部隊として
潜入させるという作戦をとったり、潜水艦からの攻撃を仕掛けたりと、
首都防衛のためのあらゆる抵抗を試みるのに加え、そのうち
宮津艦長に従ってきた幹部たちの中にも、仙石らに密かに情報を流した副長が
ヨンファの手で殺害されてからは、反発する者が現れだしたからです。



その一方で、かつて自分を拷問し凌辱した韓国安企部の職員をなぶり殺しにした兄が、
計画の遂行に手を焼き、さらに如月行に対しては、その復讐心をあらわにしないので、
ジョンヒは傷つき、兄を「老いた敗残者」と見捨ててしまい、
その代わりに「自分を満足させてくれる男」として、行を求めるのです。

「いま迎えに行ってあげる」

そう心の中でつぶやき、単独で航走中の「いそかぜ」から飛び込み、
海中で艦底に爆発物を仕掛ける行の前にいきなり立ちはだかるジョンヒ。

格闘ののち、自分のゴーグルを剥ぎ取り、ジョンヒは行の心にこう話しかけます。

ねえ、わたしと一緒に来ない?
力のある人間は生きる価値がある。
わたしと一緒に来ればもう苦しまなくてすむわ・・。


小説では、このような会話の末、ジョンヒが行にキスをすることになっており、
これだけの状況が説明されていさえすれば、決して唐突でも不思議でもありません。
ところが、映画ではヨンファとの関係も「兄と妹」とされているだけですし、
従ってジョンヒが如月行に彼女一流の「愛情」を抱く、という伏線も何もないまま、
水中で格闘しながらいきなりこういうことをするので、大抵の人がここで
「?」となってしまうというわけです。


こういうシーンでも思うのですが、この映画は、映画の中で全てを説明し、
原作とは独立した媒体として存在するという努力を一切放棄しています。

一切というのは言い過ぎかもしれませんが、このキスの件だけでなく、
映画で疑問を持ち、小説を読んで確かめることもあらかじめ計算済みで、
つまり原作の小説と映画は補遺しあうことを前提に成立しているのではないか?
と思わざるを得ないのです。

確かにこの小説を映画化するのは物理的に無理です。
いくら石破茂が猛烈にプッシュしたからといっても、いくら防衛庁が
自衛隊的に都合の悪いところをみんなカットしたといっても、
これだけの濃い、しかもスペクタクルな内容を映像化するのは限界があります。

ということで、制作側はこのことも織り込み済み、つまり、

「映画は小説のダイジェストみたいなものなので、興味があったら本読んでね」

という傍論?付きと開き直ったうえでこの映画を撮ったのでは、と思われるのです。

さて、この後ジョンヒから、かつて自殺した母が死の直前に放っていたのと同じ、
「人間が腐っていく臭い」を彼女から嗅いだ行は、彼女をしりぞけます。
そして、


ーなら、死ね。 

と感応した彼女と戦い、危ういところで仙石に救われ、彼女を倒します。

映画のヨンファは、部下が持ってきたジョンヒの遺品を受け取り、

一人で部屋に帰って白黒の写真(養父と三人で撮ったもの)を取り出し、
無言で燃やす(BGMに美しい音楽付き)わけですが、小説では彼は絶望のあまり

「顔をひきつらせているため薄笑いを浮かべているように見える表情」

を浮かべ、嫉妬と憎悪と復讐に静かに狂っていくのでした。
ちなみに、如月行はこのときのジョンヒのことを、

「口説きに来たんだ」

と仙石に説明し、仙石は最後のヨンファとの対決でその言葉を投げつけます。
仙石にすら、自分が行に嫉妬していたことを見抜かれて逆上するヨンファ。

小説のヨンファの死に様は映画とは全く違いますが、
さらに問題なのは、映画でヨンファたちが強奪した毒ガス兵器「GUSOH」が、
あくまで「本物だった」というストーリー改変が行われていること。

この辺りの「政治的事情」についての描き方も、小説ならではの面白さがあるので、
(というか、これは各方面に配慮して映画にはできなかっただろうなという印象)
読み比べてみるとよろしいかと思われます。

さて、最後に、登場する「いそかぜ」幹部を演じる俳優さんたちのことを。



如月行演じる勝地涼。
母親の生花店でロケがあったので見学していたところスカウトされ、
俳優になったというエピソードがどうも忘れられません(笑)
(吉田秋生の「吉祥天女」の遠野遼役ははまり役だと思う)

この映画の撮影に際しては自衛隊に体験入隊して訓練を行ったり、
真冬の海に入るなどの過酷なロケに挑戦し、新人賞を獲得しました。



「航海長いただきました。
両舷前進原速、赤黒なし。針路フタフタマル」

何も知らずに「いそかぜ」を操艦する衣笠艦長(橋爪淳)と、
航海長を演じる中村育二。
「連合艦隊(中略)真実」で演じた宇垣纒は良かったですね。

しかし、この図・・・こんな艦長と航海長、本当にいるよねー。

ちなみに、この艦橋はじめ「いそかぜ」のシーンは「みょうこう」で撮られました。



杉浦砲雷長役、豊原功補。
どこかで見たと思ったら、「南極料理人」のドクター役、そして
「のだめカンタービレ」の江藤先生役ではないか。

「うらかぜ」にハープーンを撃ち込む宮津からの指令を受け、

「(撃)てー!」

を発令する杉浦。
原作では、融通の利かない神経質な防大出の幹部で、
先任伍長に代表されるベテラン海曹という存在を嫌悪しているとされます。



んが、「うらかぜ」がモニターから消えた瞬間、暗い怯えた目をして
艦長やヨンファをうち眺めております。

「いそかぜ」に撃沈される「うらかぜ」役は「いかづち」だったということです。



豊原さんや中村さんもそうですが、端役にも手を抜かないのがこの映画の魅力。
小説では副長兼船務長ですが、映画では反乱を起こすのが艦長では
何か防衛省的に不都合だったらしく、副長兼務ではなく船務長である竹中3佐に、
まさかの吉田栄作。

一般大卒幹部、通称B幹部で、ヨンファにも静かに抵抗する人望厚い自衛官。
小説では仙石らに情報を流すためにマイクを仕込み、ヨンファに殺害されます。



さて、海上警備行動の趣旨は先制攻撃を受けた後も艦艇が生残することを
前提に成り立っていますが、現代戦では最初の一撃が全てを決してしまう、
つまり、「専守防衛」では勝てないという絶対的真理があります。

「その至極当然の理屈を野蛮だ、好戦的だと蔑み、
省みないで済ます甘えが
許されたのが日本という国家」


であり、宮津が海幕長に

「なぜ無抵抗のうらかぜを沈めた!」

と罵られた時に返した、

「撃たれる前に撃つ、それが戦争の勝敗を決し、
軍人は戦いに勝つために
国家に雇われている。

それができない自衛隊に武器を扱う資格はなく、
それを認められない日本に
国家を名乗る資格はない」


という言葉は、日本の防衛の現場が縛られている絶対の矛盾を突いています。

当時の防衛庁長官が、どうしてこの小説を映画化することに積極的だったのか、
こういう表現からもなんとなくわかる気がします。

(ところでちょうど北朝鮮が水爆の実験を成功させた、というニュースが流れましたね。
ぱよくの方々に聞きたいのですが、日本には平和憲法があるので、
北朝鮮は決して日本にこれ撃ってこないんですよね?

じゃ、北朝鮮は誰に向けて、どの国を攻撃するために水爆作ったんだろう(棒)
まさか、安保法案成立が北朝鮮を刺激したから、なんていわないでね?)





さて、小説と映画を比較しながら語ってきましたが、最後に、これだけは

映画化して欲しかった(しかしされなかった)という部分についてお話ししておきます。

冒頭、宮津が最初の艦長を務めた艦から陸を見ていると、
海岸で絵を描いているらしい少年がこちらに手を振っています。
ふとした気持ちで警笛を鳴らすのですが、その相手は如月行の少年時代でした。

こういう「神の視点」で書かれた偶然がこの小説には幾つかあるのですが、
「いそかぜ」で瀕死の重傷を負った両者が相見える時、朦朧とした行は
宮津に向かって「父さんが悪いんだ」と語りかけ、宮津は行に
亡き息子の面影を重ねて、「父さんが悪かった」と、なにもしてやれなかったことを
謝罪するという運命の邂逅を迎えることになります。


そして、全てが終わりました。

お互い命長らえたあと、仙石は謎の天才画家として世に出た如月と再会し、

彼と海を見るのですが、そのときに、冒頭シーンのリフレインがあります。

この小説のラストシーンは、海と船に思い入れを持つ者の心を無条件で捉えて離しません。


映画を観たあと、製作者の計略じゃなくて魂胆でもなくておすすめ通り、小説を読むのが、
多角的に楽しめる「亡国のイージス」の正しい鑑賞法だとわたしは思います。

映画と小説どちらも、あるいはどちらかしかご存知でない方に、是非おすすめしたいです。



 

 



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3 Comments

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難しい映画です (雷蔵)
2016-01-07 22:41:12
海上自衛隊のすべての人を知っている訳ではないですが、この映画に出て来るような幹部にお目に掛かったことはありません。どちらかと言うと、先任伍長が普通の自衛官に思えます。

遠くの親戚より近くの他人じゃないですが、実際の自衛官は、お母さんが子供を守るように、主義主張のような理屈より、身内を守る意識の方が強い気がします。

副長より、如月より、誰よりも先任伍長に共感しました。ただ、真田広之のようなイケメンではなく、カンニング竹山くらいの方がリアルじゃないかと思います(笑)
謹賀新年 (うろうろする人)
2016-01-08 12:51:14
今年もよろしくお願いします。
と、相も変わらず間の抜けた調子の僕ですが、昨深夜に確かに受信できていた日系人部隊の件が消えている!何らかの圧力がかかったのか?単なる誤送信か?いろいろと情報分析を進めているところです。(うそつけ)
その件ですが (エリス中尉)
2016-01-08 21:23:37
うろうろする人さんあけましておめでとうございます。
そのエントリは間違えて12時間早くアップしてしまったので消しました。
今夜が本番です。

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