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バーキン片手に靖國神社

軍人としての丹波哲郎

2012-01-15 | 映画

戦艦大和(1953) 尾形少尉
モンテンルパ 望郷の歌 鴨下少尉
潜水艦ろ号いまだ浮上せず(1954) 堀田先任将校
人間魚雷回天(1955) 主計大尉
明治天皇と日露大戦争(1957) 島村少将
銃殺~2・26の反乱(1964) 香田大尉
激動の昭和史 沖縄決戦(1971) 長参謀長
氷雪の門(1974) 鈴本参謀長
大空のサムライ(1976) 斎藤正久大佐 
八甲田山(1977) 連隊長児島大佐
二百三高地(1980)  児玉源太郎
連合艦隊(1981) 小沢冶三郎
大日本帝国(1982) 東条英機
日本海大海戦 海ゆかば(1983) 山本権兵衛
零戦燃ゆ(1984) 山本五十六司令長官

俳優、丹波哲郎が生涯に軍人を演じた映画の一部です。
年齢とともに階級も昇進していっています。
丹波は1922年生まれですから、だいたい年齢に応じた階級役と言っていいでしょうか。
34歳で連合艦隊参謀長島村速雄少将は少し早い気もしますが。

それまでわき役だったのに226の映画でいきなり中心人物役を演じていますね。(香田大尉
このとき、最初軍曹の役を割り当てられて丹波は「その場でお断り」。
その態度がでかいので「来年はもう契約しない」という会社側に
「ああ、結構だよ。俺が入ろうと思って入ったんじゃないから」
と言い放ったら、次に来たのが香田大尉役だったということです。

新人俳優丹波哲郎の態度がでかいのは有名で、
「今度入ってきた変なのだけは、使うのやめようぜ」
と監督同士で申し合わせがあった、というくらいだったそうです。
後に高島忠夫氏が態度のデカさは)「今とそんなに変わりない」と評したといいますから、
丹波さんは最初からあの丹波哲郎だったと(笑)


さて、わたしがものごころついたときにはすでにおじさん俳優であった丹波哲郎ですが、
写真で見る若き日の姿は、どの写真も水も滴るいい男。
完璧なフォルムにバランスのいい長身、力強い、しかし色気のあるまなざし。
外国映画に何本も出演し「東洋のプリンス」とあだ名された俳優だけのことはあります。


丹波家は代々薬師で、坂上田村麻呂を祖先に持つという名家の出。
東大名誉教授であり東京薬大の創立者を祖父に持ちます。
上の兄二人が東大に進む秀才でしたが、丹波少年は旧制中学受験に失敗、中央大学に進学。

在学中に学徒出陣で召集されます。
あの有名な雨の出陣式の映像のどこかには丹波正三郎(せいざぶろう)がいるわけです。
後から観る我々は、悲壮に見えますが、当事者である学生だった丹波によると、
「戦死する可能性はそんなに感じなかった。
戦局が悪くなったから学徒動員までしたんだろうけど、
まだ俺たちは勝ち戦と思ってたから」

・・・・そうだったんだ・・・・。

学徒兵の扱いは、大学生であれば一週間で星二つ。一カ月で上等兵、そして三カ月で兵長です。
一年間でようやく星ひとつの一般の兵隊の進級の速さを考えると、異例の昇進の早さです。
よくいわれるように、一般古残兵のこの学徒に対する僻みの凄まじさは、
「自分より昇進して手の届かないところに行ってしまう前に、今のうちとばかりに殴りまくる」
という苛めになって現れました。

そして、生まれたときから「丹波哲郎レベルに態度のデカい」この学徒兵。
普通の学徒兵の十倍殴られます。
一般に、学徒は兵長になり予備士官学校に行くと同時に伍長、五カ月伍長を務めれば軍曹。
明日卒業、という日になって見習士官となります。
丹波は軍曹になり、やっと「仕返しができる」と思ったのもつかの間、立川基地に配属になりました。
これは言わば「左遷」だったそうで、ここにいた人たちには申し訳ないのですが、
「全国から集められたクズばかり360人」の中の、丹波はさらに落ちこぼれ。

この立川基地は、今横田基地として米軍キャンプがあるのですが、
当時から米軍は終戦後はここを使うつもりでしたから、江田島の海軍兵学校と同じく、
銃撃だけで爆撃は決してされませんでした。
彼らが爆撃するのは、軍事施設ではなくそれはいつも民間の施設で、その理由が
「早く降参さえさせればいいんだから」

・・・・・・・何が日本の戦争犯罪だふざけんなよ鬼畜米。

と、アメリカに怒るのはまた別の機会にして、横田基地でもその「お約束攻撃」に対して、
一応応戦はしていたそうです。
それがキ64という機種の「前のものしか攻撃できない戦闘機」なのだそうですが、
(調べてみましたが資料なし)
一万メートル以上上昇できず「300メートル撃ったら弾が分散してしまう」ものだった模様。
そして整備士官を目指していた丹波が、曳航弾、炸裂弾、鉄鋼弾の三種を調整していたのですが、
「機関砲を300メートル行ったら一変調整するなんて、オレにできるわけないんだ」

・・・・なるほど。


整備兵は基本的に飛行機には乗らないのですが、
特攻を立洗で最終的に武装して送り出すまで、
立川~伊丹間を掩護の形で一緒に飛ぶようなことはあったそうです。

その特攻隊ですが、一般学徒の給料が一日35銭だとすると、90銭から1円貰っていました。
つまり3倍だったわけで、おまけに甘味品も配給ではなく、自由に与えられていました。
丹波から観る特攻隊の人々は
「だから陽気にいつも騒いでいましたよ。でも一人になると分からない」


ところで丹波正三郎の軍隊生活、何も楽しいこと、いいことはなかったのでしょうか。

「ないないない。いや、ないとはいえないね。女性関係は自由」

そうでしょうとも。
冒頭画像を見ても、こんな男前の士官候補生がいたら、そしてその軍人が
ちょっと配給の甘いものなどお土産にくれるのなら、
それを歓迎しない若い女性が果たしてこの世にいるだろうか。

「重いだけなんだけども、長剣なんか提げてカッコいいんだよ。モテないわけがない。
なおかつ砂糖を持ってるんだから」


男前の(一見)士官が背中に砂糖しょってると。で、どちらもを目当てに面会人は連日鈴なり。
「面会だ!コトは早く済ませ!」と人事課には言われていたそうで・・・・・・。



丹波は、成城中学から陸軍幼年学校も受験しているそうです。
勿論不合格だったそうで、これは不合格でよかったといえるのでしょう。
「陸軍士官になっていたらおそらく20代で死んでいたし、
二人の兄に続いて東大に入っていたら、おそらくは俳優になどなっていない」


丹波哲郎が俳優になり、銀幕の上で海軍大将、陸軍大将どちらにもなるにまで「出世」する運命は、
このときすでに決まっていたのでしょう。




(「大俳優丹波哲郎」より、ダーティ工藤氏のインタビューをもとに再構成しました)








 



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