私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 




J. S. Bach: Brandenburgische Konzerte BWV 1046 - 1051
Deutsche harmonia mundi 05472 77308 2
演奏:La Petite Bande, Sigiswald Kuijken

バッハは、「6曲の様々な楽器をともなう協奏曲(Six Concerts Avec pluseurs Instruments)」と言う標題を付けた自筆譜を作製し、フランス語の献呈文に1721年3月24日の日付を記して、ブランデンブルク辺境伯、クリスティアン・ルートヴィヒに贈った。この献呈文は「2年ほど前に、私はご用命により閣下の御前にて演奏をする光栄に浴しました」という文章で始まる。この「2年ほど前」は、フランス語で”il y a une couple d’annés”と書かれており、これを「2~3年前」あるいは「何年か前」と解釈する説が長年行われていて、それによってバッハとクリスティアン・ルートヴィヒの出会った時期に複数の説を生み出すこととなった。しかし、ちょうど2年前にあたる1719年3月1日に、バッハはケーテン宮廷からチェンバロの代金と旅費として130ターラーの支給を受けて、ベルリンのチェンバロ製作者ミヒャエル・ミートケから、注文したチェンバロを受け取るために訪問したことが、この「2年ほど前」という記述と正確に一致していることで、二人の出会いがこの時であった可能性が最も高いように思える。従って、このベルリン訪問の機会に、ブランデンブルク辺境伯の許を訪ね、御前で演奏をしたのではないかという推測が成り立つ。クリスティアン・ルートヴィヒ(Christian Ludwig zu Brandenburg-Schwedt, 1677 - 1734)は、1640年から1688年までブランデンブルク選帝候及びプロイセン公爵であったフリートリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm, 1620 - 1688)の一番末の息子で、1713年にプロイセン国王となったフリートリヒ・ヴィルヘルムI世(Friedrich Wilhelm I, 1688 - 1740)の叔父に当たり、ブランデンブルク辺境伯とハルバーシュタットの聖堂主教の地位にあった。彼はベルリン近郊のマルヒョウに荘園を持ち、ベルリンに宮殿を所有していた。フリートリヒ・ヴィルヘルムI世が即位と同時にその宮廷楽団を解散した後も、クリスティアン・ルートヴィヒは楽団を維持しており、音楽を愛好していた。ケーテン宮廷の楽団には、以前ベルリンのプロイセン宮廷の楽団員であった楽士が6名居り、その人脈を通じて辺境伯に面会する事が出来たという推測は、充分に成り立つように思われる。その上、ケーテンのレオポルト候は、1708年から1710年までベルリンの騎士学校で学んでおり、母の摂政のもとにあった間、フリートリヒ・ヴィルヘルムI世が上部後見人の任にあったことも考え合わせると、プロイセンの王家の人達と交流があった可能性が高い。バッハが辺境伯と面会した際に、具体的に作品を送るようにという要請を受けたのかどうかは確認出来ないが、この作品の献呈によって、バッハは、何らかの報酬あるいは、宮廷作曲家のような地位を期待していた可能性もある。
 この自筆譜に収められた6曲の協奏曲について先ず考えられるのは、バッハがクリスティアン・ルートヴィヒ辺境伯の宮廷楽団のために作曲したのではないかという事である。しかし辺境伯の宮廷楽団については、その詳細は分かっておらず、ただガムバ、鍵盤楽器奏者のシリアク・エムマーリンクが率いる6人からなる宮廷楽団があったらしいことが分かっているだけである。この献呈譜に含まれる協奏曲は、その表題が示すように、すべて異なった楽器編成で、様式的も変化に富んでいる。この様な編成を見ると、バッハが献呈譜に記入する曲を、辺境伯の宮廷楽団の編成を考慮して選んだようには見えない。むしろケーテンの宮廷楽団によって演奏出来る曲が多く、バッハが、すでに作曲していた作品の中から「様々な楽器をともなう協奏曲」という基準に基づいて選んだと思われる。しかしこれら6曲の協奏曲が、すべてケーテンの宮廷楽団のために作曲されたものかどうかは、議論が分かれている。たしかに、第1番へ長調(BWV 1046)と第2番ヘ長調(BWV 1047)を除いては、ケーテン宮廷楽団の構成で演奏可能である。第1番の演奏に必要な2本のホルンを演奏する奏者はケーテン宮廷の楽団にはおらず、トランペット奏者は2人居るが、軍に属する奏者で、第2番のF管のトランペットのクラリーノ音域を演奏出来る技量があったとは思えない。したがって、この2曲については、何か特別の機会に作曲されたのではないかと考えられる。
  第1番ヘ長調には、その古い形と思われる異稿、「シンフォーニアへ長調」(BWV 1046a)が存在する。この作品については、すでに「ブランデンブルク協奏曲の異稿が聴ける」で紹介した様に、第1番の第3楽章と第2トリオがなく、ヴィオリーノ・ピッコロのパートもない。さらに第1番の協奏曲では、第3トリオを始め、かなりの修正が加えられている。この「シンフォーニアへ長調」は、1713年にザクセン・ヴァイセンフェルス公爵、クリスティアンの誕生日を祝う狩と祝宴に於いて演奏された「狩のカンタータ」(BWV 208)の編成と酷似しており、その際に序曲や挿入曲として作曲されたものが原曲ではないかという説もある。しかしこの説には、ホルンの音域が異なることなど異論もあり、確証に欠けている。一方、このシンフォーニアの第1楽章の様式分析によって、「狩のカンタータ」よりも前に作曲された可能性を指摘する研究者もいる。
 第2番のトランペット・パートを演奏出来る奏者だが、ライプツィヒなどの都市に於いては、クラリーノ音域を演奏出来る奏者は、特別の資格が必要であった。ケーテン時代のバッハと関係がある範囲で考えられるトランペット奏者は、ザクセン=ヴァイセンフェルスの宮廷楽団に属し、バッハの2番目の妻、アンナ・マグダレーナの父であるカスパー・ヴィルケ及びその息子、アンナ・マグダレーナの兄弟で、アンハルト=ツェルプスト宮廷のトランペット奏者であったヨハン・カスパー・ヴィルケの2人である。ケーテン宮廷の記録には、この2人のいずれに対しても、報酬が支払われた形跡はないので、確実なことは解らないが、第2番の協奏曲の成立に、いずれかの奏者が関係しているかも知れない。
 第5番ニ長調(BWV 1050)には、その古い異稿と自筆のパート譜が存在し、特にこのパート譜が、使用されている用紙から、1720年から1721年の間に作製されたものである事が分かっており、ケーテン宮廷に於いて演奏された事を示している。古い異稿と献呈譜との大きな相違点は、第1楽章の終わりにあるチェンバロ独奏の部分である。アルトニコルによって作製された古い形の写譜では、この独奏部分は18小節しかないのに対し、献呈譜の独奏部では65小節に拡大されている。このチェンバロ独奏部の拡大は、バッハが1719年にケーテン宮廷が購入したチェンバロの能力を示すために行ったという考えもある。
 第1番と第5番以外には、この様な異稿は存在しないが、第4番ト長調(BWV 1049)は後にチェンバロ協奏曲第6番へ長調(BWV 1057)に編曲され、第3番ト長調(BWV 1048)の第1楽章は精霊降臨祭第2日のカンタータ「私は心より至高なるものを愛する」(BWV 174)の冒頭のシンフォーニアに転用されている。第1番へ長調に関しても、その第1楽章が三位一体後第23日曜のカンタータ「偽りの世、私はそれを信頼しない」(BWV 52)の冒頭のシンフォーニア、第3楽章とトリオIIが世俗カンタータ「互いに争いを止め」(BWV 207)の冒頭のシンフォーニアと挿入のリトルネッロに転用されている。さらにこれら6曲の協奏曲の個々の写譜が、クリスティアン・フリートリヒ・ペンツェルによるものを始め多数残っており、その殆どは、献呈譜以外を手本としており、このことも、献呈譜に記入された作品の原曲は、バッハが手元に保持していたことがわかる。
 「ブランデンブルク協奏曲」の6曲の作曲時期に関する最近の様式分析による研究では、一時ヴァイマール時代に作曲された曲が多いと考えられていたのに対して、第1番の元になったシンフォーニア(BWV 1046a)が1712年頃、第3番が1712年から1715年頃である他は、第5番の初稿が1718年頃、第6番が1718年から1719年、第1番の第3楽章を含む新しい稿が1719年から1720年、そして第5番の最終稿と第2番、第4番が1720年から1721年と、そのほとんどがケーテンに於いて作曲されたと言う考えに回帰している。
 この献呈譜は、非常に美しい状態で今日まで残されており、その後いかなる経路をたどったか不明だが、バッハの弟子であったヨハン・フィリップ・キルンベルガーの所有となり、さらにその教えを受けていたプロイセンのアンナ・アマリア姫の手に渡り、その膨大な音楽蔵書、ヨアヒムスタール・ギムナージウム所有の「アマリア蔵書」のひとつとして、今日ベルリン国立図書館に所蔵されている。
 今回紹介するCDは、ラ・プティット・バンドの演奏によるドイツ・ハルモニア・ムンディの2枚組盤である。このアンサンブルについては、すでに何枚かのCDを紹介しているが、ヴァイオリン奏者のジギスヴァルト・クイケンが主唱するオリジナル楽器編成の楽団である。このブランデンブルク協奏曲の演奏に於いても、兄弟のヴィーラント・クイケン(ヴィオラ・ダ・ガムバ、チェロ)とバルトルト・クイケン(フラウト・トラヴェルソ、リコーダー)が参加しており、それに加えて、ピエール・アンタイ(チェンバロ)、寺神戸亮(ヴァイオリン、ヴィオラ)、鈴木秀美(チェロ)等も参加していて、非常に高水準なアンサンブルとなっている。編成は、金管楽器を含む第1番と第2番では、音響的な均衡を保つために、第1,第2ヴァイオリンがテュッティで各3名になっているが、第3番から第6番までは各パート1人の編成で、初演当時に想定される編成を再現している。
 ただ、このCDに於ける演奏で問題なのは、第2番の編成である。ジギスヴァルト・クイケンが解説書で特に説明を加えているところによれば、F管という高いトランペットのパートを、今日しばしば見受けられる、管の途中に小さな穴を幾つか開けて、音を出しやすく、音程を安定させられるようにした楽器ではなく、オリジナルのトランペットを正規のマウスピースを付けて演奏する事が出来る奏者を起用することが出来なかったので、やむを得ずホルン奏者を起用し、本来のトランペットよりも1オクターブ低く演奏したとのことである。このホルン起用の根拠として、S. クイケンは、C. F. ペンツェルによるこの曲のパート譜の写譜に「トランペット、あるいはホルン(Tromba ô Corno da Caccia)」と言う記入があることを挙げている。しかし、このホルンの使用についての指定が、バッハに由来するものかどうかは不明で、出来得るなら献呈譜で明確に指定してるトランペットで演奏して欲しいところである。実際、このホルンを使用した第2番の演奏は、トランペットによる演奏とは、かなり印象が違っている。
 このトランペットの例にとどまらず、いわゆるオリジナル楽器による演奏が広く行われるようになってから、演奏の難しさを解消するためや音程の正確さを求めて「古楽器の現代化」が広く行われているようである。オリジナル楽器による演奏が行われ始めた頃に比較すると、最近の演奏では、安定した音程が普通になっていることが分かる。しかし筆者は、こういう傾向には、今日の古楽器の演奏が、その曲が作曲された当時の演奏の再現と言う目的とは違った方向に進んでいるのではないかという疑問を感じている。
 今回紹介したCDは、1993年5月と1994年1月にドイツ、ヘッセン州のアロルセンで行われた。このCDは、現在ドイツのソニー・ミュージックのサイトには掲載されていないが、日本のソニー・ミュージックのサイトには、2005年6月22日発売のBVCD-38074~BVCD-38075として掲載されている。

発売元: Sony Music Classic & Jazz


BVCD-38074~BVCD-38075

注)ブランデンブルク協奏曲の成立等については、主に次の資料を参考にした:
+ 新バッハ全集第VII部門第2巻、「6曲のブランデンブルク協奏曲」校訂報告書(ハインリヒ・ベッセラー)、Bärenreiter Verlag Kassel und Basel, 1956
+ Siegbert Rampe und Dominik Sackmann, “Bachs Orchestermusik, Entstehung, Klangwelt, Interpretation, ein Handbuch”, Bärenreiter Kassel, Basel, London, New York, Prag, 2000
+ Peter Schleuning, “Johann Sebastian Bach: Die Brandenburgischen Konzerte”, Bärenreiter Kassel, Basel, London, New York, Prag, 2003

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