咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

東武野田線岩槻駅近くの踏切

2016年09月24日 | 日記
さいたま市アーカイブズセンターギャラリーで公開中の ①旧岩槻市域 昭和40年代 丹過の踏切(野田線第48号踏切道) と ②旧岩槻市域 昭和40年代 加倉の踏切(野田線第42号踏切道) を見る。

東武野田線(アーバンパークライン)の踏切番号は大宮駅から順に付けられているので42号の方が大宮に近い。
その場所を地図に表示する
2014年12月18日ブログで私は矢印方向(42号踏切)に向かった
42号踏切道を電車通過した
踏切を渡りながら七里駅方面と岩槻駅方面を見た。
踏切を渡って振り返った。
さいたま市アーカイブズセンターギャラリーで公開中の写真はこの方向だと思う。

2015年08月26日ブログで私は西から東へ48号踏切に向かった
第48号踏切道標示板を見た。
さいたま市アーカイブズセンターギャラリーで公開中の写真はこの方向だと思う。
同方向を見た2015年11月21日ブログ写真
反対側から(東から)48号踏切を見た2016年01月06日ブログ写真

42号踏切と48号踏切の間には昔、43号・44号・45号・46号・47号 と5本の踏切があったと思われるのだが、現在はここ(赤丸)だけだと思う。
その踏切を2012年5月北から南へ見た。第44号踏切道だった。
踏切を渡りながら岩槻駅方面を見た。
踏切を渡って七里駅方面を見た。

2016年06月13日ブログで私はこの(青丸)踏切を北から南見た
この踏切は第41号踏切道だった。
41号踏切を渡りながら七里駅方面を見た。岩槻駅方面を見た。
踏切を渡って振り返った。

以上見てきた岩槻駅前後の踏切番号はこのようになる。
昭和24年の空中写真に現在存在する踏切を赤丸で、昔踏切があったと思われるところを青丸で示す。
青丸のところは現在のここ(青丸)だと思う。44号踏切と岩槻駅の間の青丸のところは現在立体交差になっている。
44号踏切北の立体交差を東から見た2012年5月の写真。切り通しの道だと思う。

岩槻駅南の立体交差を東から見た2011年10月の写真。同日反対側から見た写真


先ほど、42号踏切と48号踏切の間には昔5本の踏切があったと思われると書いた。これだと4本である。
昭和4年頃の地図を見る。この時代「いはつきまち」と表示されているところが現在の岩槻駅である。
この地図で踏切があったと思われるところはこのようである。
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2 コメント

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Unknown (shige)
2016-09-25 10:11:23
万歩さんこんにちは。道路や鉄道の過去の痕跡探しは楽しいですね。今回も興味深く読ませていただきました。

さて、44号から48号の間にあった踏切ですが、現在アンダーガードとなった以外に2つの踏切がありました。1つは44号から岩槻駅寄りにあり複線化する頃まで使われていました。こちらは私の記憶にも残っています。

もう1つは、現在の岩槻駅ホームの西端にあったらしく、これが昭和4年の地図に載っている岩槻駅西側にある踏切の様です。昭和24年の空中写真では痕跡が見当たりませんので、戦前すでに廃止となったのかもしれませんね。駅構内の踏切なので、詳しい事を知っている人がいるのではないでしょうか。


廃止された踏切 (咲いた万歩)
2016-09-25 15:01:40
こんにちは。
44号から岩槻駅寄りにあった踏切のことは以前ご教示いただいたことを思い出しました。
現在の東武野田線踏切番号は鉄道開設当初のものが途中でリセットされて付けられているのではないかと想像しているのですが、もしそうなら、昭和4年の地図のところに当初踏切があったとしても、現在の踏切番号には含まれていないのでないかと思います。
浄国寺の裏にあった踏切が45号だったとすれば、立体交差が46号、47号で繋がりますね。

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