■「足利義満」は「越中五位庄」を室の「業子」の追善料として自ら創建した「相国寺」(※鹿苑寺金閣)に寄進した。その後も、五位庄は足利家菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園となっている。
■「室町時代の五位庄」は「五位の西庄」と「五位の東庄」に分かれ、「五位庄」は「福野町野尻」や「般若野庄」の一部も含んでいた。
(※「畠山文書絵図」・「東寺百合文書」・「日本庄園DB」国立歴史民俗博物館)
■後白河上皇の庄園「越中吉岡庄」は南北朝末期に「五位庄」に改名されている。
(※「東寺百合文書」・「宝永誌」)
■「天皇家」・「足利義満」と「越中蜷川氏」の関連系図
■「足利義満」の母の「紀良子」は先祖に「第59代宇多天皇」を持ち、その中宮は越中蜷川氏の系統の「胤子」で在った。
「足利義満」は南北朝の合一を行い、自らは「順徳天皇」の子孫でも在る事から、「第26代継体天皇」が「応仁天皇五代孫」で在った事も在り、自らも「天皇」に比して「日本国王」と称した。「越中五位庄」は「天皇」を意識した「足利義満」の直轄庄園と成った。
※「紀良子」の母の智泉尼聖通が「順徳天皇」の皇子の「四辻宮善統親王」の孫と云われる事から、「足利義満」の皇胤説が生まれたと言う。「足利義満」が南北朝の合一を果たし得たのも、義満自体が「後白河上皇」以来、「後醍醐天皇」迄の王家に連なった人物で在った事も在った様だ。「足利義満」は南北朝の合一を果たすと、「後白河上皇」から南朝の「後醍醐天皇」迄、「後院領」、「皇室領」として続いた「越中吉岡庄」を足利家の庄園として、自らが創建した「相国寺」に寄進している。
※「宇多天皇」は「光孝天皇」と「班子」の間に生まれたが、この「班子」は後漢献帝四世の孫である「山陽公」の末裔を称する「当宗忌寸氏マサムネノイミキ」の娘と「桓武天皇」の第十二子の「仲野親王」との間に生まれたと云われ、その系統から「足利義満」は中国の漢王朝の血筋にも当たる。
※「足利義満」の妻の「日野業子」は浄土真宗の祖の「親鸞」の一族に当たる。