ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

古代からの暗号 「こうやの宮」の七支刀人形の着衣

2020-11-29 13:46:10 | 日本文化・文学・歴史

宇佐八幡宮の放生会で奉納される舞人形を保有している福岡県の八幡古表神社では住吉大神をお祀りして
いますが、その御神像は「御黒男(おんくろう)神」と称される黒々としたお姿でした。大野晋博士の
日本語の起源はタミル語という説を支持したいと思っている私には朗報でしたが、さらに仲哀天皇と神功
皇后の廷臣である武内宿禰が九州では狗人ともされ黒い神として忌避されているという伝承がありました。
そこで思い出したのはいつの頃か本の題名も定かではない一枚のコピーでした。

「こうやの宮」を検索してみると古い御堂は改築され地元の方々の手によって守り伝えられていました。
そして五体の人形の中には黒い肌の人形もあり、これらの人形には古代の人が未来へ伝えたいという思い
があるように感じました。

上記の5体の人形の解釈は諸説あるものの、大かたは私がかつてコピーした「こうやの宮の人形」の解説
の部分に共感されると思いますが、私はこれまでの謎解きの経験を踏まえて彼らの素姓をもう少し深掘り
したいと思います。

*「こうやの宮(高野宮)」の正式名称は「磯上物部神社」
*福岡県山門(夜万止・やまと)郡(現みやま市)瀬高町太神(おおが)字鬼木長島(おさじま)にある。

この「こうやの宮」が「磯上物部神社」といういわれは本物の七支刀が奈良県天理市の石上神宮に国宝として
所蔵されている為と思われ、七支刀の表にも裏にも金象嵌された62文字があり<百済の世子・奇>から<倭王
・旨>へ贈られたものと解されており、歴史的な一級史料と評価されています。

しかし天理市石上神宮の七支刀(鉄剣)は江戸時代まで「六叉の鉾(ろくさのほこ)」と呼ばれ、石上神宮の
禁足地の神庫(ほくら)の中に伝世されていましたが『日本書紀』に記載されている七支刀とは認識されて
いなかった模様で、明治7年大宮司となった菅政友が水戸藩出身で『大日本史』の編纂にも参加したという
歴史研究者であったことが幸いして六叉の鉾をつぶさに観察し、刀身に金象嵌された銘文が施されている事を
発見しさらに錆を落としはじめて銘文の解読を試みました。

七支刀に金象嵌された62文字の銘文には異体の漢字や判読できない箇所があり、その上漢文であるために歴史
書やネット上で様々な解読がなされていますが、説得力があると思った漢文解読の専門家らしい方の
 ホームページ「日本古代史ノート<七支刀銘文>私考 2011.12.19」
から読解文と訳者のコメントを紹介します。

表の銘文(中国で作られたと考えている。)
「太和4年11月16日丙午。日中の気、百錬の鉄の七支刀を造る。帯びれば百兵を退ける。宜しく(自らも)
 そなえ。候王将相にも供すべし。○○作」
 つまり、年号と常套句で構成され、これは高級なお土産品(市販品か?)
裏の銘文(中国以外で象嵌か)
「先世以来、この刀未だあらず。百濟王の世子の奇が、聖朝の治世に生れる。故に倭王のためにうまく造り
 後世に傳示す。」
 後句に「故為倭王」とあるので、前句の「聖音」とは、当時の倭王の治世をいうか。また恐らく裏の銘文
 は後から職人に特注で刻ましたか。どちらにせよこの銘文には譲渡関係を示す語句は無い。

七支刀の存在は『日本書紀』神功皇后摂政52年条に記されているが、岩波書店版・日本書紀の補注によると
これらの記事は百済の古記(三種の逸史)によって書かれていると考えられており、それ以外には文献に徴す
べき何物もないという。
七支刀が百濟の王と世子が関わり、大和王朝に贈られたものなら伝世の宝物として正倉院にあって然るべき
価値があるはずですが、物部氏の石上神宮の倉で眠っていたことに私は違和感を持ちました。

みやま市の「こうやの宮」の人形は鎌倉時代あるいはもっと以前からあったものと考えられており、天理市
の石上神宮の七支刀が発見される前から存在していたことはとても重要なことであり、七支刀を初めに手に
したのはこの地に住まう勢力であり、そしてこうやの宮の人形たちのモデルではないでしょうか?また4
世紀の倭国の都が九州の高良山周辺にあったという九州王朝説を後押しするものではないかと思いました。

もうひとつの違和感は百済から七支刀を携えて来た官人の服装でした。

上図を比べると年代の違いはあるものの同じ百済を代表する官人の服装とは思われないのです。

七支刀を持つ人物と似た着衣を探してみると、以前のブログで聖徳太子の死を悼んで作られた天寿国繡帳中
の女性の着衣が西域の和田(ホータン)の寺院の遺跡の壁に描かれていた供養者の女性像とそっくりであると
紹介しましたが、その『中国新疆文物古跡大観』の図録の中の<亀茲人>の着衣がこうやの宮の百済の官人
人形と同系統のようなのです。

亀茲国とは西域の天山南路、タクラマカン砂漠のオアシス国で屈車、庫車とも表記しクチャとも言います。
遠い遠い西域の国の亀茲が日本と関わっているとは現代の我々には信じ難いことですが、『日本書紀』や
『古事記』には天孫降臨した高千穂の峰を「久士布流」「槵觸」(くしふる)と書き、『三国遺事』(韓国
の史書)に引用する『駕洛国記(からこくき)』では加羅(伽耶)の始祖王とする首露王の降臨の地を「亀
旨(くしふる)峰」としており、駕洛国(金管伽耶)の初代大王である金首露の誕生物語には天上から亀旨
峰に綱が垂れてきて地に届くと、綱の先には黄金の卵が六つ入った包みがあり、その卵から生まれた児が長
じて金首露大王となり、他の五人が五伽耶の王になったとしており、日本の成立には伽耶が関わっている事
が察しられます。
これらの事から推量すれば、七支刀を伝えたのは百済というよりは伽耶からではなかったか?
七支刀も六叉の鉾も幹から六つの枝にわかれた形状をさし示しており、亀茲をルーツとする民族が枝分かれ
し、その一枝が「こうやの宮」の王者であろうか?

私は「こうやの宮」と「高良の宮」は同じ系統の社と思っていましたが、まてよ「七支刀」を「六叉の鉾」
と呼ぶ物部氏の方が<亀茲>をルーツとする民族と思われ、彼らの祖は天磐櫲樟船に乗って天下ったと伝えら
れる饒速日命であるが、こちらの方が「高野宮」。
「かわらの宮」と呼ぶという「高良の宮」の方は「かわらの鯰」という言い伝えがあり、鯰をトーテムとする
呉(太白の子孫と称する)からの渡来民の宮(王朝)であったのではないかと思うようになりました。

日本の歴史は一筋縄とはいかない複雑なもののように思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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