このブログの筆者・宮崎信行が、日経新聞横浜支局の経済記者(1998年9月から2002年2月まで)時代にお世話になった、
ホテル、ニューグランドの社長だった、原範行さんが、先月、2018年4月23日に亡くなっていたそうです。享年89。
関東大震災からの横浜港復興のシンボル、ホテル、ニューグランドの社長をつとめ、日本ホテル協会の会長もされました。ホテル、ニューグランドには、「ペリー来航の間」があり、日本側から見た、ペリー来航の様子が描かれています。
原さんは外交官の子息で、原家に婿入り。原家は、原富太郎が生糸(シルク)で成功し、昭和金融恐慌では時の首相に呼ばれて意見を述べました。成した財は、「三渓園」として一般に公開されています。
原範行さんは、外交官の子息ということもあり、私が横浜を離任するときには、「宮崎さんは横浜に名を成したね」との外交辞令をいただいたこともあります。心より、哀悼の意を表します。
[写真]ニューヨーク風の車寄せがある、ホテル、ニューグランド、2013年撮影、左側にあるガス灯も日本では横浜港で最初にともされた。
[写真]ホテル、ニューグランド。
[写真]原家の自宅で、現在は、一般に公開されている、「三渓園」、神奈川県横浜市中区。
[写真]このブログの筆者・宮崎信行が、2010年12月14日の日経新聞に書いた記事。
原範行氏が死去 ホテルニューグランド名誉会長、89歳
ホテルニューグランドの相談役名誉会長で、元横浜商工会議所副会頭の原範行(はら・のりゆき)氏が4月23日未明、肺炎のため死去した。89歳。フランス出身。葬儀はすでに近親者で執り行い、6月18日に「お別れの会」を横浜市中区山下町10、ホテルニューグランドで開く予定。
1953年に東京工業大金属工学科を卒業後、日産自動車に入社。67年に同社を退社して原地所に入社し、同社社長を経て83年ホテルニューグランド社長に就任した。その後、2003年に同社会長、今年1月に相談役名誉会長。
横浜を代表するクラシックホテルの顔として、1991年には新館のニューグランドタワー建設を手掛けた。自ら市内の有力企業に足を運び、企業や個人の協力を取り付けて「市民の共有財産のホテル」にふさわしい資本構成を実現。横浜の観光産業の活性化にも心を砕いた。
横浜経済界でも存在感を発揮し、横浜商議所の副会頭を2000年から6年間務めたほか、日本ホテル協会や横浜美術館協力会の会長、横浜観光コンベンション・ビューロー評議員などの要職を歴任した。横浜を代表する実業家として知られる原富太郎(三渓)の流れをくむ原家の当主だった。
これらの多方面にわたる貢献で00年横浜文化賞、04年旭日中綬章を受けた。
横浜商議所は「市内観光・ファッション産業のほか文化、芸術活動など幅広い分野でご活躍され、地域経済の振興、発展に多大なるご尽力をいただいた。心よりご冥福をお祈りする」とのコメントを出した。
1953年に東京工業大金属工学科を卒業後、日産自動車に入社。67年に同社を退社して原地所に入社し、同社社長を経て83年ホテルニューグランド社長に就任した。その後、2003年に同社会長、今年1月に相談役名誉会長。
横浜を代表するクラシックホテルの顔として、1991年には新館のニューグランドタワー建設を手掛けた。自ら市内の有力企業に足を運び、企業や個人の協力を取り付けて「市民の共有財産のホテル」にふさわしい資本構成を実現。横浜の観光産業の活性化にも心を砕いた。
横浜経済界でも存在感を発揮し、横浜商議所の副会頭を2000年から6年間務めたほか、日本ホテル協会や横浜美術館協力会の会長、横浜観光コンベンション・ビューロー評議員などの要職を歴任した。横浜を代表する実業家として知られる原富太郎(三渓)の流れをくむ原家の当主だった。
これらの多方面にわたる貢献で00年横浜文化賞、04年旭日中綬章を受けた。
横浜商議所は「市内観光・ファッション産業のほか文化、芸術活動など幅広い分野でご活躍され、地域経済の振興、発展に多大なるご尽力をいただいた。心よりご冥福をお祈りする」とのコメントを出した。