ノー天気画家の本音生活 

これが私の生き方などとヤセ我慢するよりも、今日の風に流されましょう!

日本から美しい原風景が消えていく、それは農業の衰退に起因していました

2014-05-20 09:51:56 | 犬たち

前回のブログでお約束した通り、2泊3日で1400キロのドライブ旅行をしてきましたが、思い返せばハンドルを握る時間があまりにも長すぎて、老人には多少過酷な旅でした。
特に2日目は、対向車とのすれ違いもままならない曲がりくねった山道を、300キロもブッ飛ばしたのですが、さすがに心底疲れてしまいました。
旅から帰ると、わが息子から「もっと自分の年齢を自覚して、せめて3日を1日伸ばして4日にするなどの、心のゆとりが必要!」とやんわりお説教され、実に深く反省したのです。
でも、たぶん、いつものように、間違いなく、喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうでしょうネ。

上の絵は、旅行の目的地のひとつである京都府美山のかやぶきの里の風景を、旅から帰って印象が薄れないうちにと思って、急いで絵にしたものです。
美山はタイムスリップしたようなかやぶきの家々が点在しており、まさに「心のふるさとの風景」がしっかり残っており、私はこの風景を惜しむような気持で描きました。

あと10年もすれば、このような美しい風景も日本から消えてしまうでしょう。
人は消え、集落は消滅し、家は廃屋となり、田畑は荒れ放題になる・・・。
日本の原風景が消失することは日本文化の消失そのものであり、それはひとえに農業の衰退に起因しているのです。


話がかわって、私の故郷は石川県で、お国自慢は「加賀百万石」と誰もが口をそろえるように、その石高の多さが自慢(他に自慢することがなかったかも?)でした。
石高とはお米の生産量のことですから、その当時はお米は日本の主要産業そのものだったわけで、石高が藩の豊かさであるだけでなく、権威そのものだったのです。
となれば都会から遠く離れた山間の耕作地と、都会に隣接した耕作地で同じ生産量となれば、経済的価値は同じとなるわけです。
つまり江戸時代までは日本のあり方は稲作農業を中心としており、平地・山間地、近地・遠地にかかわらず、それぞれの地域がそれぞれの出来栄えを競い合い、日本という国を形作ってきたのでした。

しかし近代に入り、都市を起点とした多様な産業が芽生え、戦後は地方出身の若者たちは田畑を捨て、都会へ都会へと移動し、私もそのひとりでした。

つまり日本は地域分散型国家から、都市集中型国家」に大きく変貌したのです。

近代になって日本農業は激しく衰退しました。 目を覆うばかりの数字があり、1960年と現在とを見比べてください。

日本のGDP(国民総生産)に占める農業生産額は、9.0%から1.0%に下がりました。
食料自給率は、79%から41%に下がりました。
農業就業人口においても、1196万人から、252万人と激減しました。
その内訳をみると、65才以上の高齢農業者の比率は、1割から6割に上昇しました。つまり若者の地域離れが一挙にすすんだことを意味しています。
その最大の理由は農業による収入の低さで、平均1ヶ月あたり15万8千円程度(せいぜいパート収入程度)で、若い人が真剣に取り組むにはあまりにも少な過ぎる額なのです。

農業の衰退により打撃を受けたのは、限界集落の増加でした。
限界集落とは、若者の都会への流出などにより、人口の50%以上が65才以上の高齢者となり、共同生活の維持が困難になっている集落をいいます。
日本の市町村には6万以上の集落があるのですが、その中で8千が限界集落の状態にあり、その中でもここ数年で3千近くが消滅・もしくは消滅の恐れがあり、その数も加速度的に増加しているのです。

実はこの美山にも10年前に訪れたことがありました。
京都からちょっと山に入れば深山となり、曲がりくねった細い山道を数時間も走らなければ美山にたどり着けないのですが、その途上にかやぶき屋根の小さくて美しい集落が数多くありました。
10年たって同じ道を辿ってみると、美しい集落のいくつかは限界集落を超えて消滅集落となっていました。
人が離れて久しく、荒れ放題となったかやぶき屋根の家は、哀れと悲しみがそこにあり、それは時代の変化だけでかたずけられない無念さを感じたのです。
農家が消えるということは、単に家がなくなるということではなく、長い間培われてきた伝統や文化、もっといえば日本人としての心のよりどころまで消えてしまうということなのです。 

私は今のうちにこの美しい美山の風景を絵に収めなければならないという義務感を感じながら上の絵を描き、これからも描き続けていくつもりです。

 


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