美濃部家と河合家
美濃部家と河合家の間柄についてふれておきます。
河合家とえば地元では、「農民政治家・国会議員(旧社会党)」として、よく知られている写真の河合義一(1882~1974)の家のことです。
河合家は、江戸時代には高砂の豪商であり大蔵元でした。
美濃部家と河合家は、義一の父河合儀一郎の時代からつきあいがあったといわれています。
ちなみに、新撰組の勘定方になった河合耆三郎(きさぶろう)は、儀一郎の兄にあたります。
(河合耆三郎については、次号で余話として紹介します)
さて、儀一郎は、高砂町初代(明治22年)の町会議員であり、学務委員もつとめました。
また、地域でも町総代、高砂神社氏子総代なども行い、顔のきく有力者でした。子どもの教育にも熱心でした。
儀一郎は、達吉の父秀芳より一回りほど年下でしたが、二人とも同時期に町会議員をつとめており、また子どもの教育にも力を注ぎました。
河合儀一郎は、義狭心がつよく、金を儲けるどころか、人が困っているのをみると惜しむことなく援助するなどして、かつての財もかなり使い尽くしたようです。
達吉の父・秀芳と河合義一の父・儀一郎は、何かと共通点もあり、親近感を覚える関係にあり、美濃部・河合の両家は河合儀一郎の時代から何かと行き来がありました。
すばらしくよくできる達吉と兄俊吉を勉強させるため東京に送りだそうと、高砂の資産家たちが学資を出しましたが、そのときその世話に奔走したのが河合儀一郎だったようです。(no3589)
*写真:河合儀一胸像
*『みなとまち高砂の偉人たち(吉田登著)』(友月書房)より