芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

中井英夫の憤激

2016年06月02日 | エッセイ
                                                      

 つい先日、高村光太郎の「智恵子抄」の詩を舌の上に転がし、良い文だ、こういう散文を綴ってみたいと書いた。
 歌人で作家、詩人の中井英夫はその批評の言辞に、まことに仮借がない。戦前、戦時中の光太郎の詩文についてこう評した。
「おしゃべり調の詩は、光太郎の詩によってあまねくふりまかれた。それはたとえ敬虔な事柄をうたうにせよ、おしゃべり----上品にいえば単に流暢な日本語、すこし気の利いた、すこし達者な、にすぎないのである(従来の表現に従えば散文)。」
 中井は戦争に際して文学者や詩人の堕落について仮借がない。
「今度の戦争になって、おおよそ詩本来の端的さ、鋭く短い性質というものは失われ、何か調子にのったおしゃべり口調がはやり出したのは、ひとつには詩の朗読の流行とも結びつくことだろうけれども、特記されていい堕落である。三好達治さえも日本的リズムの探求をすててしきりに七五調を弄して皇軍兵士の奮戦をたたえている。」
 彼は詩人や文学者たちが戦争になんら批判力を持たず、無自覚に戦争協力に堕していることに苛立ったのだろう。戦後に反戦詩人となる金子光晴も日本文学報国会に入会していた。苛烈な圧力に屈した宮本百合子や蔵原惟人、中野重治も入会した。百合子は獄中の宮本顕治に叱られている。
 日本文藝家協会がそのまま日本文学報国会になったこともあり、ほとんどの文学者、詩人、歌人たちが日本文学報国会に入会したが、唯一それを鼻先でせせら笑って拒絶したのは「大菩薩峠」の中里介山と、内田百間くらいなものであった。介山は羽村で安藤昌益的な生活を理想とし、政治指導者も軍事指導者も、国民も馬鹿としか思えなかったのだ。また、永井荷風は無断で入会したことになっていることを憤り、会長の徳富蘇峰が嫌いだと日記に書き残している。

 漱石山房が陸軍将校の宿舎となると聞いた中井英夫は、その憤激を日記に書き残している。「『文人漱石』をどれだけか尊んでいる私には、日本現代文学の一面が養われてきたその部屋を、有体、犬と大差のない彼らの土足に汚されることだけは、世の人と共に堪えられない気持ちだ。彼らの暴慢の一例として永く記憶さるべきことであろう。」
 彼は反軍反戦思想の青年であった。
「己の一番嫌悪し、最も憎むのは、この枯れっ葉みたいにへらへらし、火をつければすぐあつくなる日本人民と帝国臣民という奴だ。この臣民をそのまゝ人民と名を置き換えて、明日の日本に適用させようとするのは、今日最も危険なことだ。それは翼賛議員が看板を塗り替えた位のことではない。このくすぶれる暗黒の大地からは、何度だって芽が出てくる。狂信的な愛国主義者、国家主義者、軍国主義者。そいつらの下肥えがかかった、この汚れたる土地をまず耕せ。でなければ明日の日本に花開き栄えるものは、単に軍国主義の変種にすぎないであろう」(一九四五年十一月二十六日)

 今、中井英夫が予言した通りの世の中になってしまった。日本人は敗戦という千載一遇の機会を生かせず、日本人自らの手によって戦争指導者・戦争犯罪人を裁くこともせず、戦争責任もとらない輩に再び仕え、その奴隷根性も抜けぬまま支配され、やがて彼らは最大与党を形成し、CIAの資金援助を受けた戦争犯罪人が首相までなってしまったのだ。
 もう一度、彼の怒髪天を突くほどの憤怒、憤激を読み直したい。
 中井英夫は激越な憤怒を抱えたまま、祖父、父と続く植物学者の家系ゆえか薔薇を愛し、西洋音楽と歌舞伎と、江戸川乱歩の幻想と北原白秋の綺羅の言葉に憧れ、萩原朔太郎に読み耽り、芸術、文化を尊重し、黒鳥や幻想的な文学をものした。「黒鳥館日記」を綴り、「虚無への供物」「幻想博物館」「悪魔の骨牌」「悪魔の囁き」「銃器店へ」「月蝕領宣言」「薔薇への供物」…。また「短歌研究」「日本短歌」「短歌」の編集長として知られ、天才・中条ふみ子、塚本邦雄、寺山修司を発掘し、世に送り出した。
 

    
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