旅慣れた二人のお気に入り

北から南から有名な場所を巡り 旅行した中でのすばらしき大きな感動を得られたお気に入りの場所です。

熊本城・大天守・小天守

2010-10-15 10:23:58 | 日記
熊本城(別名銀杏城)

熊本城は日本三名城(大阪城・名古屋城・熊本城)のひとつに数えられる城で、加藤清正が
 7年の歳月をかけて、慶長12年(1607)に築きました。

 武者返しと呼ばれる独特な曲線をもつ石垣や櫓に石落としを設けるなど、実践向きの大城郭と
 して築城を開始、城内は大天守・小天守をはじめ、櫓(やぐら)49、櫓門18、城門29を
 数え、城郭の広さは約98ha(東京ドーム21個分)、周囲約5,3キロメートルにも及び
 本丸御殿の畳数は1570畳もあり、豪壮雄大な構えで、清正流石垣と呼ばれる優美な石垣と
 高度な築城技術で知られています。

 寛永9年(1632)加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だったこともあり、
 将軍徳川家光により加藤家は取り潰しになる。
 加藤忠広(加藤清正の子)は幕府の豊臣恩顧の大名取り潰し策で謀反の疑いをかけられ、改易
 されました。加藤忠広は出羽庄内、城主酒井忠勝にお預けとなり出羽丸岡に居を移しました。

 同年、加藤氏の後に豊前小倉城主・細川忠利が肥後一国54万石の太守として入封する。
 加藤家二代、細川家十一代、240年の居城として続いた後、明治に廃城となる。

 西南戦争では薩摩の大軍を迎えて不落の名城として、真価を発揮し、総攻撃の三日前に
 原因不明の火事により、天守閣や本丸御殿等を焼失し、焼失を免れた宇土槽(うどやぐら)
 など13棟の建造物が国の重要文化財に指定される。

 現在大天守や小天守と呼ばれているのは、昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造り
 で外観復元されたものです。
 この頃は歴史考証を無視した、再建計画でも文化庁は許可を出していました。
 コンクリート製の大阪城とか名古屋城とかであります。

 大天守閣は一般公開されていて見られますが、小天守閣は入れません。
 天守閣内部は熊本博物館分館となっており、一階は加藤家時代、二階は細川家時代
 三階は西南戦争関連の資料を展示しています。最上階は展望所となっており、熊本市内は
 もとより、遠く阿蘇の山並みを見ることも出来ます。

 大天守は写真に向かって左側の建物

 茶臼山の最高所、標高50mの天守台上の土台材を外方に約2mせり出した「忍び返し」
 戦いの際には床板をはずし、石落としをしました。
 内部は37室の戦闘用居住空間となっている。
 大天守は外観3層、内部6階(高さ32m)地下1階で石垣の上に大根太を張り出して
 その上に建物が乗り、どっしりした印象を与えます。
 四面に優雅に反った、千鳥破風(ちどりはふ)を配し、最上階の南北には唐破風(からはふ)
 を据えています。
 内部は戦闘に備えた部屋割りとなっており、明治初年に天守閣に登った、洋学校の
 アメリカ人教師ジェーンズは「巨大な中世の武器庫である」と書き残している。

 小天守は写真に向かって右側の建物

 小天守は大天守が出来た後に増築されたもので、景観を考慮し、西にずらして
 建てられています。
 外観2層、内部4階(高さ19m)地下1階で内部は居住を意識した造りになっており
 地下には井戸も掘られ厠(かわや・便所)や台所が設けられ、最悪の場合天守閣のみ
 での籠城も可能な構造になっています。
 また、小天守建物と石垣の間には石垣を登ってくる敵の侵入を防ぐための「忍び返し」
 という鉄串が設置されています。
 「忍び返し」は長さ50㎝前後はありそうで石垣を登って攻めるのは難しそうです、



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