ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

俳優・原田芳雄の思い出

2016-06-18 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽






初出 2011年07月20日


 ピーター・フォークのあと、こう立て続けに好きな俳優の追悼文を書くことになるとは思わなかった。ただしフォーク氏の場合、すでに現役を退いていたし、ここ数年は重度のアルツハイマーという報道もあって、こちらにも或る程度の覚悟はあった。しかし原田さんは、『火の魚』での白いスーツに身を包んだ姿があまりに颯爽としていたから、まったくそんな心配はしていなかった。三年前(2008年)に大腸癌の手術をされたのは知ってはいたが、早期とのことであったし、大事に至らず乗り越えられたものだとばかり思っていたのである。遺作となった『大鹿村騒動記』の試写会がこの11日に行われ、車椅子でその場に臨まれたのだが、すでに言葉を発することができず、メッセージは石橋蓮司さんが代読した。そのときの映像を初めて今朝のニュースで見た。頭髪はなく、痩せ衰えて痛々しかった。死因は肺炎とのことだが、腸閉塞を併発されていたそうだから、やはり癌の影響があったのだろう。享年71歳は、弟分だった松田優作の40歳と比べれば、「早すぎる」とまでは言えないが、やはりショックは拭えない。老境に足を踏み入れ、いっそう円熟味を増して、村田省三のような魅力あふれる人物像をもっとたくさん見せて欲しかった。大物政治家や大企業の重役などよりも、やはり芳雄さんには幾つになっても市井のアウトローっぽい役柄が似合う。しかしこのように考えていくと、『火の魚』というテレビドラマが名優・原田芳雄への深いリスペクトに基づいて作られた作品だったことがつくづく分かる。

 1940(昭和15)年生まれといったら、アメリカだとアル・パチーノと同い年である。ダスティン・ホフマンとジャック・ニコルソンは三歳上、ロバート・デ・ニーロは三歳下だ(ちなみにピーター・フォークは1927年生まれで、ずっと上の世代になる)。日米の映画界を単純に比較はできないが、これらの俳優たちが台頭してきた1960年代後半から1970年代にかけては、従来の撮影所のシステムが崩れ、テーマのうえでも手法の面でも、「映画」というメディアが大きな変貌を遂げた時期であった。もちろん政治の季節でもあった。ベトナム反戦を主幹に据えた反体制ムーブメントを背景に、いわゆるアメリカン・ニュー・シネマの動きが燎原の火のごとく燃え盛っていた頃である。日本では、日本アート・シアター・ギルド(ATG)が、いわばジャパニーズ・ニュー・シネマの中心を担った。ぼくなんか、原田芳雄といえば真っ先にATGを思い浮かべる。そのことはこのブログでも何度か書いてきたけれど、しかし平成生まれの若い人には、そのATGのことから説明せねばならないんだろうなあ。手近に適当な資料がないので、またしても「困ったときのウィキ頼み」になってしまうんだけど、ウィキペディアによれば、「日本アート・シアター・ギルドは、1961年から1980年代にかけて活動した日本の映画会社。他の映画会社とは一線を画す非商業主義的な芸術作品を製作・配給し、日本の映画史に多大な影響を与えた。また、後期には若手監督を積極的に採用し、後の日本映画界を担う人物を育成した」組織ってことになる。ウィキの記述をさらに引く。

 「良質のアート系映画をより多くの人々に届けるという趣旨のもとに設立され、年会費を払って会員になると多くの他では見られない映画を割安の価格で観られたため、若者たちの支持を得た。60年代から70年代初めの学生運動、ベトナム反戦運動、自主演劇などの盛り上がりの中で、シリアスな、あるいはオルタナティブな映画に対する関心は高かった。当時は御茶ノ水近辺に主要な大学が集中しており、新宿が若者文化の中心となっていて、ATGの最も重要な上映館であった新宿文化は、話題の映画の上映となると満員の盛況であった。……(中略)…… ATGの活動は、主に外国映画の配給を行っていた第1期、低予算での映画製作を行った第2期、若手監督を積極的に採用した第3期に大別することができる。…………」

 つまりは、「松竹・東宝・東映」といった既成の大手が制作・配給するお仕着せの作品に飽き足りなくなった映画人たちが立ち上げ、良質のファンが支えた新世代の映画集団と要約してもいいかと思う。原田芳雄は、この「低予算での映画製作を行った第2期」を代表する役者のひとりであった。松田優作との初共演ということもあり、半ば「伝説」のように扱われている『竜馬暗殺』をはじめ(ただ二人の絡みのシーンはさほど多くはなかったが)、『田園に死す』『祭りの準備』など、ぼくの脳裡に焼き付いている初期原田芳雄のイメージはほとんどATGの作品である。ただし、原田芳雄という役者はけっしてそういう「アングラ」一辺倒のひとではなくて、大手メジャーの作品はもちろん、テレビドラマにもしょっちゅう出ていた。そもそも俳優座に籍をおきながら役者としてデビューを果たしたのはフジテレビのドラマだったし、そこで演じた「純朴な青年」像を打ち破り、のちに繋がる「ワイルドなアウトロー」路線へと転換を果たしたのも松竹映画『復讐の歌が聞える』であった。当時の演劇青年のあいだには、舞台こそを役者の仕事の第一義とし、映画やテレビを低く見る傾向があったようだが(そしてそれは、とても真っ当で健全な考えだと思うが)、原田さんたちの世代は日本においてそういう風潮をかえる先鞭をつけたといえるかもしれない(時代の趨勢とは言いながら、そのことに批判的な意見を持つ層ももちろんいるであろう)。

 ぼくはおじさんだけどそれほどの齢でもないので、その時代のことを肌で知っているわけではない。しかしぼくが青春期を過ごした80年代前半(バブル前夜)にはまだそこそこ70年代の余熱が残っており、深夜テレビでけっこうATGの作品をやっていたのである。『竜馬暗殺』も『祭りの準備』も、高校の頃にテレビで観たのだ。『田園に死す』はNHK教育テレビで観たと思う。ほぼ5~10年くらいのタイムラグで、ATG全盛期の熱気に触れていたことになる。そのことはおそらくぼくの映画観やらドラマ観、さらには芸術全般や社会に対する考えの基礎にもなっていると思うのだが、バブルの到来によって、その頃の空気は一掃されてしまった。だから90年代以降に産まれた世代と、どれくらい感覚が共有できているものか、いつもブログを書きつつ心もとない気分でいる。

 ところで、じつはぼくが初めて原田芳雄の顔と名前を覚えたのは映画でもなければドラマでさえなかった。タモリが土曜の夜にやっていた、本邦のテレビ史上唯一の大人のためのバラエティーショー、「今夜は最高!」だったのである。タモさんをホストに、毎回男女ひとりずつのゲストを迎えてトークやコントや歌を楽しむ愉快な番組で、その夜のもう一人のゲストは、忘れもしない大原麗子だった(この方も故人になってしまった……)。番組冒頭でちょっとした寸劇をやる趣向があって、原田芳雄は私立探偵、大原麗子は彼に仕事を依頼しに来る謎めいた美女という設定だった。いかにもありがちなパターンで、まあパロディーみたいなもんなのだが、お二人とも、余興の寸劇にしてはもったいないほどカッコよくて様になっていた。なにしろあの声音である。ぼくはわりあい声に敏感なほうだと思うのだが、あの頃の芳雄さんの声は今にも増して、びんびんと体の奥に伝わってくる感じであった。鋼のように芯が通っていながら色気があってしなやかで、ああいう声質はほかにジャニス・ジョプリンくらいしか思い当たらない(最近では、スガシカオがちょっと近いかな?)。それに麗子さんのあのハスキーな甘い声が絡むのだからたまらない。

 「存在感」という言葉が当時まだ残っていたけれど、とにもかくにも、これほど存在感をたたえた役者はほかにいなかった。「な、な、なんだこの人は?」と思い、その時からたちまちファンになってしまった。『B級パラダイス』という写真入りのエッセイ集(同名の歌もある)を買って、高校を出るまで愛読していたものだ。「ダウンワード・パラダイス」はナイン・インチ・ネイルズ「ダウンワード・スパイラル」のもじりだけれど、ブログをやるに際してぜひ「パラダイス」という単語を入れたいと思ったのにはその影響もあったのだ。

 80年代前半の原田芳雄は、そのほかにも、宇崎竜堂、松田優作両氏とともにビールのCMに出たり、田村正和とコンビで洒落た大人の恋愛ドラマ『夏に恋する女たち』に出たりと、テレビにけっこう露出して、楽しげにやっているように見えた。しかし当時を代表する一作といえば何といっても鈴木清順監督の映画『ツィゴイネルワイゼン』であろう。これは生涯を通じて百本以上の映画に出た原田芳雄の代表作といっていいと思うし、日本映画を代表する傑作でもある。ぼくにとってもまた、黒澤明の『生きる』や川島雄三の『幕末太陽伝』と並び、十代後半といういちばん柔らかな時期に観て、決定的なインパクトを受けた作品であった。このうち『生きる』は1952年、『幕末太陽伝』は1957年の作品だから、同時代の映画としては、『ツィゴイネルワイゼン』と、その姉妹編というべき『陽炎座』の二作とが、自分にとってのファースト・インパクトだったということになる。二十歳のときのゴダール・ショックに先んじて、清順ショックがあったのだ。その二作ともに原田芳雄が出ていたし、また原田芳雄なかりせば、これらの作品は成立しなかったであろう。

 『ツィゴイネルワイゼン』は内田百閒、『陽炎座』は泉鏡花と、日本文学史上においてその特異さで傑出した鬼才の小説が原作だが、鈴木清順は一歩も引けを取ることなく、原作のテイストを生かしつつ、独自の妖しくも絢爛たる世界を作り上げている。そして、これらもまたATG系列の作品であった。原田芳雄という人は、小難しい演劇理論を口にしたり、芸術ぶったりするところは全然なかったけれど(むかし「ユリイカ」の鈴木清順特集におけるインタヴューで、かなり高度な話をしていた記憶があるが、印象としてはあの人は、誰かがそういう話を始めたら、そっと逃げ出す感じがする)、やはりATG作品にあってこそ、その類いまれなる個性を十全に発揮する役者なのではなかったか。じつはNHKの作るドラマは、このあいだ再放送していた向田邦子さんの『阿修羅のごとく』もそうだけど、その最良の部分においてATGを髣髴とさせるところがあり、『火の魚』はその伝統に連なるドラマであったといえる。それゆえにあの作品は、晩年の原田さんを代表する名作となりえたのであろう。

 訃報に接して、とりあえず、もういちど『火の魚』を観たいと思う。尾野真千子さん演じる折見とち子の造形があまりに見事だったゆえ、どうしても彼女を主体に見てしまっていたあのドラマを、今ならば村田省三の側から見ることになるだろう。かつてぼくは、折見を前にして無理難題を言う村田のことを、「老いの悲しさというよりも、不良少年のまま老境を迎えたナルシストのわがままだけが伝わってくる」と評したけれど、今だったら違う印象を抱くかもしれない。そして、折見のことを思いやりながら流した涙を、村田省三のために、いや、不世出の俳優・原田芳雄のために流すことになるだろう。



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