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秋田県にかほ市 芭蕉ゆかりの象潟(きさかた) 蚶満寺(かんまんじ)

2023年09月03日 13時23分10秒 | 秋田県

道の駅象潟「ねむの丘」6階展望塔から南東方向。秋田県にかほ市象潟町字大塩越。

鳥海山。中央に駒留島。その右に蚶満寺(かんまんじ)。

6階展望塔から東方向。天然記念物の「九十九島」。

2023年6月1日(木)

2023年5月31日(水)午前6時30分頃に名古屋市守山区の自宅を出て、木曽福島・松本市・長野市・栄村など国道を経由して17時30分頃に新潟市の道の駅「新潟ふるさと村」に着いた。6月1日(木)6時30分ごろ、新潟バイパスの渋滞前に出発すると、8時30分ごろ2001年初夏に登頂した百名山の鳥海山の幅広な山容が見えてきた。10時頃、秋田県にかほ市象潟の見学予定地である蚶満寺(かんまんじ)の入口が見えたが、あえて通過して、まず象潟の全容を眺めるために、300mほど先の展望塔のある道の駅「象潟」に駐車した。

象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」とよばれたように、かつては松島同様無数の小島が浮かぶ入り江だった。

道の駅6階展望塔は無料である。展望塔からは西に「日本海」、東に「鳥海山」と天然記念物の「九十九島」など、象潟町の自然を360度眺めることができる。

九十九島は、鳥海山のふもとに点在する103あまりの島々が田園地帯に浮かんでいるように見える象潟独特の風景である。その由来は、海に面した鳥海山にある。山頂付近の地形を見ると、北に開いた馬蹄形の窪み(東鳥海馬蹄形カルデラ)がある。これは、紀元前466年におきた山体崩壊の跡で、この巨大崩壊は、「象潟岩屑なだれ」とよばれ、川に沿って一気に流下して象潟平野に達し、先端は日本海に突入した。

その時、山頂から滑り落ちてきた巨大岩塊の集積で「流れ山」とよばれる小山の集まりが、東西1km南北2kmにわたり海の中に浮かぶ入り江を形成した。これが、象潟の原形「九十九島」である。

さらに1804年、象潟大地震がおこり、約2m以上隆起して、干潟(陸地)になり現在の姿となった。

広い道の駅を歩いてみると、生の天然「岩がき」を売っており、その場で食べることができた。運よく、6月1日が地場産カキ漁の解禁日だった。1個700円。このあと、蚶満寺へ向かった。

 

蚶満寺(かんまんじ)。本堂。秋田県にかほ市象潟町象潟島。

蚶満寺は曹洞宗の寺院で、山号は皇宮山、本尊は釈迦牟尼仏。干満珠寺(かんまんじゅじ)ともいう。853年(仁寿3)慈覚大師(円仁)の開創。神功(じんぐう)皇后のいわゆる「三韓(さんかん)征伐」のとき海中に干珠満珠を得たという伝説にちなみ、この山号寺号があるというが、寺名については諸説ある。

正嘉元年(1257年)8月、鎌倉幕府5代執権北条時頼(最明寺入道)が北国巡視のおりに寺領を寄進し再興したことをもって中興開祖と仰ぎ、寺紋に北条家の三つ鱗の紋を使用した。その後、天台宗より真言宗に改宗し、1592年(文禄1)現宗派に改められた。

古くから文人墨客が訪れた名刹として知られ、元禄2年(1689年)6月には松尾芭蕉が訪れ、『奥の細道』のなかで、「九十九島」とよばれた当時の象潟の景観を絶賛している。ここで芭蕉は、古代中国の美女西施を思い浮かべ、「ねぶ」を「ねむの花」と「眠る」にかけて、「象潟や 雨に西施が ねぶの花」と詠んでいる。芭蕉はまた松島の景観との比較もおこなっている。このなかで「干満珠寺」として登場するのが蚶満寺である。

北条時頼の躑躅(七不思議「咲かずのツツジ」)。樹齢700年を超える。

北条時頼の躑躅。ツツジが数輪咲いていた。

タブの木。

木登り地蔵。木の股にそれらしいものがあった。

親鸞聖人腰掛の石。

肥前島原の西方寺にあった親鸞が腰掛けたとされる石。安永6年(1777年)切支丹ノ変を避けるために信者が蝦夷地に輸送中、シケにあい、象潟に陸揚げしてここに納めたものであるといわれている。

舟つなきの石。芭蕉一行が舟を繋いだ石という。

今回の旅では、司馬遼太郎著『街道をゆく・秋田県散歩』(朝日新聞社、1987)を読んで出かけた。司馬遼太郎は、紀行集『街道をゆく』でかつて戦友だった住職に再訪するため蚶満寺を訪れた。同行していた司馬遼太郎の夫人が、25年前に訪問したとき2・3歳だった住職の娘に挨拶されて面影を見出したというエピソードが記されている。「舟つなぎの石」前の池は住職が掘って作ったという。

帰りがけに、山門近くで清掃していた受付の女性に、住職の娘は寺にいるのかと尋ねると、今は関東に住んでいるという返事だった。「舟つなきの石」前の池の件は分からないが、以前も客から尋ねられたという。司馬遼太郎の足跡は面白い。

芭蕉句碑。宝暦13(1763)年の建立。「象潟や 雨に西施が ねぶの花」。

西行法師の歌桜。「きさかたの桜は波にうづもれて花の上漕ぐ海士のつり舟」に詠まれた桜の老木があったという。西行は文治6(1190)年没。

猿丸太夫姿見の井戸(七不思議「姿見の井戸」)。

蚶満寺山門。木造切妻造瓦葺の八脚門(12坪)。年代不詳だが江戸中期の建立と推定される。矢島藩主生駒氏の奇進とされる金剛力士(仁王)像を安置する。瓦には菊の紋章が用いられている。これは、閑院宮家祈願所となったことによる。

蚶満寺二十四世全栄覚林。

象潟は文化元年(1804年)の大地震(象潟地震)で干潟に変わった。陸地化した土地問題で本荘藩と紛争となったが、蚶満寺二十四世全栄覚林(生年不詳-1822年、仙北郡角館生まれ)は、命がけで九十九島の保存を主張した。

象潟地震後の潟跡の開田を実施する本荘藩の政策に対し、覚林は蚶満寺を閑院宮家の祈願所とし、朝廷の権威を背景として開発反対の運動を展開、文化9年(1812年)には同家祈願所に列せられている。覚林は文政元年(1818年)江戸で捕らえられ、1822年、本荘の獄で死去した。

惣助翁彰徳碑。惣助(そうすけ、1603年生まれ。没年不明)は、象潟(旧中塩越村)の一百姓。貧しい村の将来を憂い、田に水を引くための灌漑用水路の完成のために心血を注いだ。蚶満寺山門横の碑には、「満三年不眠不休の努力と全私財を投じて開通せられたるものにして・・・」と記されている。

駒留島。蚶満寺の北に隣接し、九十九島のなかで唯一頂上に登れる島という。

駒留島から眺める蚶満寺と山門。

駒留島の頂上から眺める鳥海山。

蚶満寺駐車場北の公園にある西施像。

蚶満寺駐車場北の公園にある松尾芭蕉像。

11時30分ごろ見学を終え、湯沢市の院内銀山異人館、川原毛地獄・川原毛大湯滝へ向かった。

2023年6月前半 秋田県・岩手県の車中泊旅行 八幡平ドラゴンアイ チャグチャグ馬っこ



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