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金福寺(蕪村の墓と芭蕉庵)


■旧暦8月29日、月曜日、、彼岸明け

(写真)蕪村の墓(金福寺)

蕪村の墓のある金福寺は、左京区の一乗寺下り松町にある。もとは、天台宗の寺であったが、のち、一時荒廃し、江戸時代中期、鉄舟和尚が再興し、臨済宗南禅寺派の寺として、今日に至る。蕪村は、仏光寺の立て札からもうかがわれるように、浄土宗との関わりが深い生まれであるが、ここ金福寺に芭蕉庵を再興してから、次のような句を詠んで、金福寺の芭蕉碑の近くに埋葬を希望している。

我も死して碑に辺せむ枯尾花


蕪村の芭蕉への敬慕の念がいかに強かったか、よくわかる句である。



この芭蕉の肖像画は、蕪村筆によるもの。ときに蕪村、64歳。この肖像画の上部には、芭蕉を賞賛した清田儋叟の撰文と芭蕉の句の中で蕪村がもっとも好んだものを蕪村自身が書いている。それは次のような句である。

こもを着て誰人います花の春

花にうき世我酒白く飯黒し

ふる池やかはず飛びこむ水の音

ゆく春や鳥啼魚の目はなみだ

おもしろふてやがてかなしきうぶねかな

いでや我よききぬ着たり蝉衣

子ども等よ昼がをさきぬ瓜むかん

夏ごろもいまだ虱とり尽さず

名月や池をめぐりてよもすがら

ばせを野分して盥に雨をきく夜かな

あかあかと日はつれなくも秋の風

いな妻や闇のかたゆく五位の声

櫓聲波を打て腸氷る夜や泪

世にふるもさらに宗祇の時雨かな

年の暮線香買に出でばやな


蕪村の芭蕉選句というのは、なかなか、興味深いが、軽みの感じられる句ばかりでなく、存在の深みや哀しみに触れている句を多く採っている点が、注目される。

ちなみに、蕪村が金福寺で詠んだ句に次がある

畑打つや動かぬ雲もなくなりぬ

夏山や通ひなれにし若狭人

三度啼いて聞えずなりぬ鹿の声

冬近し時雨の雲もここよりぞ




再興された芭蕉庵 元禄の頃、芭蕉は、京都の東西を吟行した折り、当時の草庵で自適していた住職鉄舟和尚を訪れ風雅の道について語りあい親交を深めた。その後、それまで無名であった庵を鉄舟和尚が「芭蕉庵」と名づけ、芭蕉の高風を偲んだ。その後、70年ほどして、蕪村が当寺を訪れた頃には、すでに庵は荒廃していた。しかし、村人たちは、ここを「芭蕉庵」と呼びならわしていた。芭蕉を敬慕していた蕪村は、その荒廃を大変惜しみ、安永五年、庵を再興し、天明元年、俳文「洛東芭蕉庵再興記」をしたため、当寺に収めた。その庵が落成したときに蕪村は次の句を詠んでいる。

耳目肺腸ここに玉まく芭蕉庵




金福寺の枯れ山水小庭



同上 安永、天明の頃、蕪村は、金福寺をしばしば訪れ、一門で俳人結社「写経社」を結成し、句会を開いた。結社の名称に宗教性を感じさせるが、蕪村の宗教との関連は、一茶や芭蕉ほど、はっきりわからない。今回の旅で、浄土宗にゆかりの人だったらしいことがわかったが、俳諧や絵画に、宗教性がどう出ているのか、いないのか、興味深い点である。



同上



芭蕉庵へ続く門



蕪村が指定した芭蕉庵の窓の形



金福寺の入口階段



金福寺の空



金福寺より京都市内を一望できる



芭蕉庵



同上 



金福寺の古木



蕪村の墓へ



江森月居の墓、蕪村の高弟。几董とともに蕪村門下の双壁と言われた。金福寺では、こんな句を詠んでいる。

山寒し残る弟子さへ二三人

庵成りぬまず咲き出でよ柿の花












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