チョイさんの沖縄日記

辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録
 

沖縄・慶良間、「強制集団死」検証の旅(①渡嘉敷)

2009年03月28日 | 沖縄日記・沖縄の戦跡
 3月27日~29日、大江岩波沖縄戦裁判支援連絡会の、「強制集団死・慶良間列島検証の旅」に現地参加させていただいた。

 当時、慶良間諸島の渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島には、海上特攻の秘密基地が築かれていた。1945年3月26日、27日に米軍が上陸。島の人々、約600名が「集団自決」に追い込まれた。また、日本軍による住民虐殺もおきた。

 渡嘉敷では、集団自決の現場から奇跡的に助かった吉川嘉勝さん(現教育委員長)に案内していただいた。




 渡嘉敷島・北山(にしやま)の「集団自決跡地」の碑。1945年3月28日、この付近で住民315人が「集団自決」に追い込まれた。




 吉川嘉勝さん。当時6歳。家族皆で「自決」を図ったが、手榴弾が不発。その後、お母さんの「生きよう!」の一言でその場を離れたが、目の前でお父さんが砲弾で倒れた。
 長く校長先生を勤められ、今は渡嘉敷村教育委員会委員長。90年代の末から、子どもたちを中心に当時の体験を積極的に語られている。2007年9月の県民大会でも、壇上で、「日本軍の命令がなければ、『集団自決』などは起こらなかった。」と発言された方だ。




 「第1玉砕場」、フィジガーへと下りる道。この先で、多くの住民が「自決」したと思うと、思わず、足がすくむ。




 「白玉の塔」、座間味で死んだ兵士、軍属、防衛隊、住民ら、合計368人が刻銘されている。
 今日はちょうど3月28日だったので、慰霊祭が行われていた。我々も献花・黙祷をする。(写真は献花する吉川嘉勝さん)





 小嶺正雄さん(当時15歳)が一人で掘った家族壕がそのまま残っている。
 彼も、フィジガーで家族と自決を図ったが手榴弾が不発。「死にきれない人々のうめきや叫び声、血の匂いが今も頭から離れません。人間が人間でありながら、人間でなくなっているんです。恐ろしいですよ。」と語ってくださった。
 壕の横には、「戦場ぬ憶い 忘る時ねえらん 子孫に語て 平和願ら」と書いた看板を立てられている。
 小嶺さんも、戦後、当時の体験を誰にも語ったことはなかったが、戦後、61年目になって初めて話し始めたという。




 慶良間には、300隻の海上特攻艇(「マルレ」)が配置された。渡嘉志久には、今も特攻艇マルレの秘匿壕がそのまま残っている。
 特攻艇といっても、ベニヤ板製のもので、1隻の特攻も遂行できず、焼却された。




 朝鮮人慰安婦慰霊碑(アリランの碑)
 渡嘉敷、座間味、慶留間の各島には、それぞれ、7名の朝鮮人慰安婦が連れてこられた。渡嘉敷島にいたペ・ホンギさんは、戦後も母国に帰らず、水商売をしながら沖縄に残留し、1979年まで佐敷村のサトウキビ畑の2畳の部屋に住んでいた。その後、那覇市のアパートに移り住んだが、そのアパートで誰にも看取られず死亡し、5日後に発見されたという。
 渡嘉敷の村には、今も、当時の慰安所「赤瓦の家」が残っている。吉川嘉勝さんの母方のおじさんの家が立ち退かされて慰安所になったという。島の住民が慰安婦に近づくことは堅く禁じられていたが、吉川さんは、朝夕、豚のエサをやりにこの家に行き、唐辛子をあげて、お礼に金平糖をもらったりしたと話された。

 慰安婦以外にも、慶良間には、当時、1000人余の朝鮮人軍夫が連行されてこられ、苦役を強いられた。また、日本兵らに殺されたりもしている。
 1997年、ぺ・ホンギさんらを弔うために、渡嘉敷島の丘に「アリランの碑」が建てられた。




慶良間の島々は、今が、慶良間つつじの花の真っ盛り。新緑の山のあちこちに、真っ赤な花が咲き乱れている。
1945年3月当時も、きっと慶良間の島々は、こんなふうにつつじの花で覆われていたのだろう。座間味の宮里芳和さんの話では、「集団自決」の際、人々は、手榴弾のまわりに丸く集まったのだが、手に手に、つつじの花を持っている人が多かったという。


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