風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

ジョン・エヴァレット・ミレイ展(3)/オフィーリアとシャロット

2008-10-16 00:21:37 | アート・文化
Lady_shalott というのも他ならぬその手法が、かのイギリスの地におけるヴィクトリア朝の桂冠詩人テニスンなどの手法に良く似ているとボクには思えたのである。建国神話でもあるアーサー王伝説はむろんのこと、テニスンがその華麗なるペンの先で描写するのは先行するホメイロス、スペンサーそしてシェークスピアの題材に基づくテーマだった。いや、現在でも「千一夜物語」や、他ならぬ「オフィーリア」という作品は飽かず現代作家の手によっても書きつがれている。オフィーリアは尼寺へひきこもるどころか、いまだ作家や詩人のイマジネーションを刺戟し続ける。
 小林秀雄の「おふえりや遺文」もそのような書かれ方をした。オフィーリアに同棲した愛人長谷川泰子の姿を重ねながら、小林は泰子を葬ろうとした。無意識の内か、意図してか?

 「おふえりや遺文」は、死後のオフィーリアの独語として成立している。オフィーリアは、いや泰子はここに於いてはすでに死んでいるのだ。ああ、愛するひと、中也から奪った花嫁、狂った花嫁よ。秀才と言われたわたしをお前は悩ませ続ける。死んでくれ、わたしが殺す前に自ら入水して………。

 「女は俺の成熟する場所だつた。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破つてくれた。と言つても何も人よりましな恋愛をしたとは思つてゐない……女を殺さうと考へたり、女の方では実際に俺を殺さうと試みたり、愛してゐるのか憎んでゐるのか判然としなくなつて来る程お互の顔を点検し合つたり、惚れたのは一体どつちのせゐだか訝り合つたり、相手がうまく嘘をついて呉れないのに腹を立てたり、そいつがうまく行くと却つてがつかりしたり、要するに俺は説明の煩に堪へない。」
(小林秀雄「Xへの手紙」)

 今回のミレイ展でも展示された「マリアナ」は、テニスンの詩の中にもある。シェークスピアの「尺には尺を」の登場人物でミレイは群青のビロードのワンピースを纏ったマリアナを官能的に描いている。
 会場にも展示されてあったが、ミレイはテニスンの「詩集」にもエッチングで挿画をそえている。そのテニスンがオフィーリアをテーマにした詩を書かなかったらしいのが不思議に思えるが、オフィーリアの姿はどうやら「シャロット姫」(The Lady of Shalott)に反映しているようだ。

 「ほの暗く広がる川面を下り
  ……そして一日の暮れ果てるころ
  姫は小舟の鎖を解き、身を横たえると、
  幅広き流れにのってはるばると運ばれる、
    シャロットの姫君は。

  雪のごとき純白の衣装をまとい横たわると
  ひらひらと右や左に舞う衣
  ……人々は姫のうたう臨終の歌を耳にした、
    シャロットの姫君の。

  かなしげな、聖なる歌は
  声高く、また声低く歌われた。
  やがて姫の血はおもむろに凍えゆき、
  両のまなこもすっかり暗黒の世界と化し、
  ……流れに身を任せて漂う姫君が
  水路ぎわの初めての家に着くその前に
  姫は己が歌をうたいつつ息絶えた、
    シャロットの姫君は。」
 (「対訳テニスン詩集」西前美巳編訳/岩波文庫)

 そしてこのテニスンの詩文のシャロットの姿形、描写は不思議なくらい小林秀雄の「おふえりや遺文」の描写に似ている!

 「風流な土左衛門」(夏目漱石「草枕」)としてのオフィーリアは、こうして『ハムレット』を離れてひとつの神話的登場人物としてイコン化され、現代にまでつながる系譜となる。
(おわり)

(図版)ウォーターハウスの描く「シャロットの女」。テニスンの詩の場面を見事に描き上げた(この作品も今回のミレイ展とは直接関係しません)。


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