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■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 前編 】

アクセスが急に増えたと思ったら、たしかにお彼岸のイベントですね。
アゲてみます。

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2021/06/22 UP

江戸時代、江戸の庶民、とくに女性に広く信仰を広めた札所詣がありました。
「武州江戸六阿弥陀詣」です。

江戸名所図会など江戸期の絵図にも多くとりあげられ、逸話も多いので時間をかけてじっくり構成してみたいと思いますが、まずは初稿としてUPしてみます。
なお、「 滝野川寺院めぐり」の記事と重複する内容があります。

ボリュームがあるので、前編と後編に分けます。

■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 前編 】
■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 後編 】


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『江戸名所図会』(常光寺境内説明板より)


【写真 上(左)】 第1番目 西福寺
【写真 下(右)】 第2番目 恵明寺

武州江戸六阿弥陀霊場(江戸六阿弥陀)は、行基菩薩が一夜の内に一本の木から刻み上げた六体の阿弥陀仏と、余り木で刻した阿弥陀仏、残り木(末木)で刻した聖観世音菩薩を巡拝する八箇寺からなる阿弥陀霊場で、女人成仏の阿弥陀仏として崇められ、江戸中期から大正時代にかけて、とくに春秋の彼岸の頃に女性を中心として盛んに巡拝されたといわれます。
開創年代については諸説あり錯綜していますが、札所は確定しています。

第1番目 三縁山 無量壽院 西福寺
 北区豊島2-14-1 真言宗豊山派
第2番目 宮城山 円明院 恵明寺(旧小台村延命院)
 足立区江北2-4-3 真言宗系単立
第3番目 佛寶山 西光院 無量寺
 北区西ケ原1-34-8 真言宗豊山派
第4番目 宝珠山 地蔵院 與楽寺
 北区田端1-25-1 真言宗豊山派
第5番目 福増山 常楽院
 調布市西つつじヶ丘4-9-1(旧下谷(上野)広小路) 天台宗
第6番目 西帰山 常光寺
 江東区亀戸4-48-3 曹洞宗
木余の弥陀 龍燈山 貞香院 性翁寺
 足立区扇2-19-3 浄土宗
木残(末木)の観音 補陀山 昌林寺
 北区西ケ原3-12-6 曹洞宗


国土地理院ウェブサイト掲載の「地理院地図」を筆者にて加工作成。


【写真 上(左)】 『東都歳時記』の札所一覧(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載・原データ
【写真 下(右)】 『滑稽名作集. 上/六あみだ詣 上編・十返舎一九題』の札所一覧 (国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載・原データ

■常光寺「六阿弥陀道道標」説明板より
「江戸六阿弥陀詣とは、江戸時代、春秋の彼岸に六ヶ寺の阿弥陀仏を巡拝するもので、その巡拝地は順に上豊島村西福寺(北区)、下沼田村延命院(足立区)、西ヶ原無量寺(北区)、田端村与楽寺(北区)、下谷広小路常楽院(調布市に移転)、亀戸村常光寺となっていました。江戸六阿弥陀には奈良時代を発祥とする伝承がありますが、文献上の初見は明暦年間(1655-58年)であることから、六阿弥陀詣は明暦大火後の江戸市中拡大、江戸町方住民の定着にともなう江戸町人の行楽行動を示すものといえます。」

江戸六阿弥陀についてまとめた文献は多数ありますが、ここでは下記2資料を主に参考とし、適宜引用させていただきました。
1.「江戸の3 つの『六阿弥陀参』における『武州六阿弥陀参』の特徴」/古田悦造氏(リンク、以下「資料1」とします。)
2.「『篤信』の『商売人』 - 東天紅上野本店裏手の常楽院別院に関する調査報告 -」/徳田安津樹氏(リンク、以下「資料2」とします。)

順路については、『東都歳時記』によると札番どおりではなく、第5番目 常楽院 → 第4番目 與楽寺 → 第3番目 無量寺・木残(末木) 昌林寺 → 第1番目 西福寺 → 第2番目 延命院 (現・恵明寺)・木余 性翁寺 → 第6番目 常光寺〔結願〕という時計回りのコースが多くとられたようです。


『東都歳事記. 春之部 下』(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載・加工)


※ 『東都遊覧年中行事』(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)

各寺院の縁起や由緒、足立区資料、および「資料1」「資料2」などから江戸六阿弥陀の創祀を辿ってみます。


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〔 足立姫伝説 〕
その昔この地に「足立の長者」(足立庄司宮城宰相とも)という人がおり、年老いて子がないことを憂いて、日頃から尊崇している熊野権現に一途に祈ると女の子を授かりました。
「足立姫」と呼ばれたこの子は容顔すこぶる麗しく、見るものはみな心を奪われたといいます。

生来仏を崇うことが篤く、聡明に成長した姫は「豊嶋の長者」(豊島左衛門尉清光とも)に嫁いだものの、嫁ぎ先で誹りを受け、12人(5人とも)の侍女とともに荒川に身を投げ命を絶ってしまいました。

足立の長者はこれを悲しみ、娘や侍女の菩提のために諸国の霊場巡りに出立しました。
紀州牟宴の郡熊野権現に参籠した際、霊夢を蒙り1本の霊木を得て、これを熊野灘に流すと、やがてこの霊木は国元の熊野木(沼田の浦とも)というところに流れ着きました。

この霊木は不思議にも夜ごと光を放ちましたが、折しもこの地を巡られた行基菩薩は(この霊木は)浄土に導かんがための仏菩薩の化身なるべしと云われ、南無阿弥陀仏の六字の御名号数にあわせて霊木から六体の阿弥陀如来像を刻し、余り木からもう一体の阿弥陀仏、さらに残った木から一体の観音菩薩像を刻まれそれを姫の遺影として与えました。
後にこれら七体の阿弥陀仏と一体の観音像は近隣の寺院に祀られ、以降、女人成仏の阿弥陀詣でとしてとくに江戸期に信仰を集めました。
※なお、資料によっては、足立姫は豊嶋左衛門清光の娘、嫁ぎ先を足立少輔家にしているものがあります。

この哀しい逸話は「足立姫伝説」とも呼ばれ、このエリアに広く伝わるものです。

『滝野川寺院めぐり案内』の無量寺の頁に「江戸近郊を歩くこのミニ巡礼は、表向きは信心とはいうものの、実際は世代家族の同居が当たり前だった時代の、年に2回のストレス解消とレクリエーションの一石二鳥の効果を狙ったものであった。まさに庶民が、日常生活の中から考えた知恵だったのであろう。」と記載されていますが、江戸の年中行事を描いた『東都歳時記』や『江戸名所図絵』でも複数取り上げられていることからも、そのような側面が大きかったと思われます。

「足立姫伝説」の経緯からは娵姑の確執がうかがわれ、このような背景もあってか、第6番目の常光寺のWebでは「六番は嫁の小言の言いじまい」「六阿弥陀嫁の小言(噂)の捨て処」の川柳が紹介されています。

気候のよい春秋の彼岸の一日、気の合ったお仲間と連れだって、日頃の鬱憤の発散をはかる庶民の姿がうかがわれます。


『江戸名所図会』7巻[17](国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)

「資料2」では柳沢吉保の孫・信鴻作の『宴遊日記』からつぎの描写が紹介されています。(安永六年(1777年)2月の項)
「今日彼岸の終り阿弥陀参り往来甚賑し、天色大に晴、西南白雲如刷、平塚明神鳥居前より坂道を下り、利島郡へ行、行人にて塗甚込合、五歩六歩に路上仏を居へ、村姥数人念仏を唱へ、或ハ太鼓・鐘をうち建立の法施を請者夥く、疥癬の乞僧路上に満ち、辻博突有、畝中路上皆貝売雪の如し」




『滑稽名作集. 上/六あみだ詣 上編・十返舎一九題』(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)

また、十返舎一九の『六あみだ詣 上編』には下記の描写があります。(国会図書館DC
「彼岸功徳経に曰。二八月七日の間無数萬億のぼさつ。法を説て衆生楽をあたへ給うなりと。其外諸経にも見へて。春秋二度の彼岸には。人間の罪障消滅の縁ふかく。佛に法施し。僧に供養するの時なりとて。六阿彌陀詣といふ事。いつの頃にやはじまり。六ヶ所の霊地に貴きも賤しきも。あみだの光も地獄のさたも。銭次第とてはやみちに。臍くりをとりこみ。巾着のひもながき麗なるに。打ちむれつヽ一乗無外の色のよの中。とぢぶたとつれだつ破鍋(われなべ)あれば。餅をつく桃灯は。ぬれたる祖母の腰つきを思ひやり。佛性常住の吸筒をかたげ。一色一香のにぎりめしをふところにして。ぬらりくらりの牛は牛づれ。馬は馬づれ。はなしつれてゆく中にも。(以下略)」

「資料2」によると、六阿弥陀伝説が最初に記されたのは江戸時代前期成立の『六阿弥陀伝説』とみられ、すべての札所(寺院所在)が明確にされたのは貞享四年(1987年)の『江戸鹿子』とのことです。

なお、京都今熊野の新熊野神社の公式Webによると、熊野本宮大社の本地は阿弥陀如来で「この当時(平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて)の当時の熊野信仰を一言でいうと、本地垂迹説に基づく神仏習合信仰と浄土信仰が一体化した信仰ということになろう。」とあるので、江戸六阿弥陀が熊野とつながりをもつのは自然な成り行きであったともみられます。

それでは第1番目から順にご紹介していきます。

なお、御朱印については8箇寺すべてで授与されておられますが、多くが授与所ではなく庫裡での授与で、タイミングや状況によっては拝受できない可能性もあるかもしれません。
ある程度御朱印拝受に慣れた方向けの札所詣のような感じがしています。


■ 第1番目 三縁山 無量壽院 西福寺
北区豊島2-14-1
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:豊島八十八ヶ所霊場第67番、荒川辺八十八ヶ所霊場第20番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.江戸六阿弥陀霊場第1番目
朱印尊格:阿弥陀如来
2.豊島八十八ヶ所霊場第67番
朱印尊格:阿弥陀如来


『江戸名所図会』十五(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)

「足立姫伝説」の登場人物、豊嶋左衛門清光の創建(開基)と伝わる古刹で、六阿弥陀第1番目の阿弥陀如来をご本尊としています。

「是世に所謂六阿彌陀の一なり、縁起を閲するに、聖武帝御宇當國の住人豊嶋左衛門清光、紀伊國熊野権現を信し、其霊夢に因て一社を王子村に建立し、王子権現と崇め祀れり、然るに清光子なきを憂ひ彼社に祈願せしに、一人の女子を産す、成長の後足立少輔某に嫁せしか、奩具の備はらさるを以少輔に辱しめられしかは、彼女私に逃れ荒川に身を投て死す、父清光悲に堪す是より佛教に心を委ねしか、或夜霊夢に因て異木を得だり、折しも行基當國に来りし故、清光其事を告しに行基即ちかの異木を以て六體の阿弥陀を彫刻し、近郷六ヶ所に安置して彼女の追福とせり、故に是を女人成佛の本尊と稱す、當寺の本尊は其第一なり、次は足立郡小臺村、第三は當郡西ヶ原村、第四は田畑村、第五は江戸下谷、第六は葛飾郡亀戸村なりと云、此説もとより妄誕にして信用すへきにあらされと、當寺のみにあらす残る五ヶ所とともに、少の異同はあれと皆縁起なとありて世人の口碑に傳る所なれは、其略を記しおきぬ、且清光は権頭と稱し、治承の頃の人なれは行基とは時代遥に後れたり」
(『新編武蔵風土記稿』 → 国会図書館DCより)

「此説もとより妄誕にして信用すへきにあらされと、當寺のみにあらす残る五ヶ所とともに、少の異同はあれと皆縁起なとありて世人の口碑に傳る所なれは、其略を記しおきぬ」とあり、江戸六阿弥陀の創祀伝承については疑義をはさんでいます。
ただし文面からは、六阿弥陀の伝承は人口に膾炙し、信仰も広がっていたことがうかがわれます。

江戸六阿弥陀の寺院の縁起や由緒をみると、
A.足立姫の父は足立(沼田)庄司(従二位宰相藤原正成)、嫁ぎ先は豊島左衛門尉清光
B.足立姫の父は豊島左衛門尉清光、嫁ぎ先は足立の沼田治部少輔
の2パターンあることがわかります。
当寺の縁起は、B.足立姫の父は豊島左衛門尉清光のパターンです。

足立氏(藤原氏流)も豊島氏も中世には豊島郡・足立郡に勢力を張った有力氏族です。
足立氏と豊島氏の関係については未だ調べていませんが、対抗関係にあったとすると、その関係が「足立姫伝説」を介して伝わった可能性もあるかもしれません。

豊島清光は中世に豊島郡を領した武将で、史料から正式名は”清元”とされています。
治承四年(1180年)、石橋山の戦いで敗れ、安房国から再挙を図った源頼朝軍に合流し、鎌倉に入って幕府御家人に列しました。
清光・清重父子は奥州合戦の遠征軍に加わり、清重は戦功を挙げて戦後に奥州総奉行に任ぜられています。

豊島清光の館は当寺からもほど近い清光寺とされ、清光寺には豊島清光の木像が祀られています。(清光寺も豊島霊場の札所なので、御朱印を拝受できます。)

飛鳥山から流れ下る石神井川(滝野川・音無川)が荒川に合流するすぐそばにあり、王子駅前からだと徒歩15分弱です。
境内は広く、多くの見どころがあります。


【写真 上(左)】 石柱門
【写真 下(右)】 身代地蔵菩薩

通りに面した石柱門の右手には「身代地蔵菩薩」が御座します。
美貌で高慢な双六好きの藤原氏のお姫様の危機を救われ、改心したお姫様の信仰を受けたという逸話をもつお地蔵さまです。


【写真 上(左)】 境内参道
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 奉石橋の碑
【写真 下(右)】 六地蔵

参道正面が山門。三間一戸の八脚門で屋根は本瓦葺、唐破風の下に天井絵をはじめ艶やかな彩色の意匠が施されています。
手前は仁王尊二体。本堂側には風神、雷神が御座す見どころの多い山門です。
山門の手前右手の六地蔵は、「逆さ卍の六地蔵」として知られる石仏です。


【写真 上(左)】 風神
【写真 下(右)】 雷神


【写真 上(左)】 中門前
【写真 下(右)】 中門

さらに参道を進むと正面が中門。おそらく三間一戸の八脚門ですが山門よりはシックなつくで、山門と中門のふたつの門がいいコントラストを見せています。
手前に「関東六阿彌陀元木第壱番霊場」の札所標。
江戸六阿弥陀は「関東六阿弥陀」とも呼ばれたと伝わりますが、これを裏付けるものです。

中門手前左右の獅子はともに阿形で、ちよっと変わった表情をしています。
左手に御座す端正なお顔立ちのお地蔵様と正面上手の「六阿弥陀第壱番」の赤い提灯が、女人霊場らしい華やぎを醸しています。


【写真 上(左)】 札所標と中門
【写真 下(右)】 本堂前

中門は閉ざされているので脇から回り込みます。
中門から本堂までは回廊形式で朱塗りの柱梁の屋根がかかっています。
正面は左右にたくさんの絵馬がかかった、信仰の篤さを伝える本堂です。
本堂の全容は明らかでないですが、近代建築かと思われます。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 阿弥陀如来と本堂


【写真 上(左)】 阿弥陀如来
【写真 下(右)】 岩清水六阿弥陀

本堂向かって右に、御本尊のお前立ちとみられる阿弥陀如来が御座します。
蓮華座に結跏趺坐され、光背に化仏を配し、来迎印(上品下生印)を組まれる存在感あるおすがたで、さすがに阿弥陀霊場発願札所です。

境内にはほかにもさまざまな見どころがあります。

・お馬塚
「よさこい節」の一節 ”土佐の高知のはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た”の逸話の主人公「お馬」の墓所が当寺であることが確認されたため、昭和47年に建立されたものです。
土佐の2人のイケメンの僧と、美しい鋳掛屋の娘「お馬」の間で繰り広げられた波瀾万丈の恋物語で、メインの舞台は土佐ですが、「お馬」は2人の僧いずれとも結ばれず、土佐の大工・寺崎氏と結婚し、明治中期に東京に移り、没後西福寺に入りました。
「お馬」の恋物語の概要

物見高い江戸っ子のことゆえ、この色恋沙汰の物語が知られていれば「お馬」とこのお寺は一大観光?スポットとなった筈ですが、このお話しは幕末が舞台で、しかも当寺との関係が確認されたのは昭和も後期。
さすがの江戸っ子も、これでは駆けつけるすべもありません。

・奉石橋の碑
石神井川に架かる現在の豊石橋は、以前は氾濫のたびに流され、かつてこの地を訪れた夫婦の六部(巡礼者)が川を渡れずに困っていたところ、村人たちが助力してこの六部を安全に渡しました。
その後、「秩父のある方から頼まれて来た」という石屋が立派な橋を架け、一体の石のお地蔵さまを納めて帰っていきました。村人たちは「秩父のある方」がかの六部であると悟り、感謝の意を込めて「奉石橋」と名付けたと伝わります。

・岩清水六阿弥陀
境内の一角にあります。
中央に当山の施無畏印・与願印の立像の阿弥陀如来。左右に定印を結ばれる五体の阿弥陀如来坐像が御座し、六阿弥陀各寺の寺号が刻まれています。
江戸六阿弥陀発願寺としての矜持が感じられる六阿弥陀です。


【写真 上(左)】 当山(壱番目)
【写真 下(右)】 弐番目 恵明寺


【写真 上(左)】 参番目 無量寺
【写真 下(右)】 四番目 與楽寺


【写真 上(左)】 五番目 常楽院
【写真 下(右)】 六番目 常光寺

御朱印は庫裡にて拝受しました。
豊島八十八ヶ所霊場第67番の札所でもあり、そちらの御朱印も授与されています。

● 江戸六阿弥陀如来第1番目の御朱印

中央に宝珠印(蓮華座+火焔宝珠)、「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫と右上に「第壱番」の札所印。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

なお、中央上部に阿弥陀如来の種子(キリーク)、右に聖観世音菩薩の種子(サ)、左に勢至菩薩の種子(サク)が揮毫された阿弥陀三尊様式は、江戸六阿弥陀の御朱印で複数みられるものです。

〔 豊島霊場の御朱印 〕

基本的な構成は江戸六阿弥陀と同様ですが、こちらは尊格揮毫が「阿弥陀如来」。
右に豊島霊場の札番「第六十七番」の揮毫があります。


■ 第2番目 宮城山 円明院 恵明寺
足立区江北2-4-3
真言宗系単立
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:荒綾八十八ヶ所霊場第54番、荒川辺八十八ヶ所霊場第21番(旧小台村延命寺)、第23番、第24番(旧沼田村能満寺)、第25番(旧宮城村円満寺)、第26番(旧小台村正覚寺)、第27番(旧小台村観性寺)
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.江戸六阿弥陀霊場第2番目
朱印尊格:阿弥陀如来

御本尊の阿弥陀如来は六阿弥陀第2番目で、明治9年(1876年)小台の延命寺を合併の際、延命寺から移られたものと伝わります。(よって、江戸期の第2番目は延命寺)

新編武蔵風土記稿巻之百三十六 足立郡之二 小臺村の「阿彌陀堂」が小台の延命寺を指すものとみられます。
「六阿彌陀堂と称する其第二番なり、沼田村の接地にあるを以て、人多く沼田の六阿彌陀といへり、其濫觴を尋るに、人王四十五代聖武帝の御宇、豊嶋郡沼田村に庄司と云もの一人の女子あり、隣村に嫁す、いかなる故にや其家の婢女と沼田川に身を投じて死せり、父の庄司悲の餘彼等追福の為にとて、所々の霊場を順拝し、紀州熊野山に詣でし時、山下にて一株の霊木を得たりしかば、則仏像を彫刻して、かの冥福を祈らんと、本國に帰りて後僧行基に託して、六軆の彌陀を刻し、分て此邊六ヶ寺に安置せし其一なるよし縁起に載す、尤うけがたき説なり、聖武帝の頃庄司と云ものあるべき名にあらず、且沼田村は豊嶋郡にはあらで本郡の地なり、かゝる杜撰の寺傳取べきにあらず、また隣村宮城村性翁寺の傳には、足立の庄司宮城宰相の女子、豊嶋左衛門尉に嫁せしが、故ありて神亀二年六月朔日侍女と共に荒川に投じて死す、其追福の為にかの熊野山の霊木を以て、行基に託し彫刻して此邊の寺院六ヶ寺に安すと云、神亀は聖武帝の年号にて、少しくたがひあれど同じ傳へなり(中略)されど此六阿弥陀のことは、世の人信ずることにて、其造立さまで近き頃のことゝも思はれず。」
(『新編武蔵風土記稿』 → 国会図書館DCより)

ここでも『風土記稿』は「かゝる杜撰の寺傳取べきにあらず」としながらも「されど此六阿弥陀のことは、世の人信ずることにて」と受け、創祀伝承に疑問を呈しながらも人々のあいだに「六阿弥陀」の信仰が広がっていることを記しています。

荒川辺八十八ヶ所霊場の札所であり、沼田村、宮城村、小台村の数寺の札所が恵明寺に移動していることから、3村の寺院が合併された可能性があります。
「猫のあしあと」様の情報によると、荒川辺霊場第21番の小台村延命寺)、第25番の宮城村円満寺、第26番の小台村正覚寺、第27番の小台村観性寺が荒川河川改修工事に伴い廃寺(第24番の沼田村能満寺は明治維新前に廃寺)となり、札所は本寺の恵明寺に移動したようです。
この影響か、現在の宮城、小台は隅田川と荒川に挟まれた島状のエリアで、寺院の数は少なくなっています。

創建年代等は不詳ですが、複数の末寺を抱えていたことからも想像されるとおり、山城国醍醐三宝院の直末で(足立風土記資料)、慶安元年(1648年)寺領二十石の御朱印状拝領の記録が残るこのエリア有数の古刹(中本寺格の寺院)です。

以前は鉄道駅から遠く陸の孤島的な立地でしたが、日暮里舎人ライナーが開通して交通の便がよくなりました。「扇大橋」駅から徒歩約9分で到着です。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標と山門

荒川沿い、首都高江北JCTのそばにあります。
山門は本瓦葺の重厚な薬医門で、門前に大ぶりな寺号標、枝ぶりのいい青松と六阿弥陀・荒綾霊場併記の札所標を置く構えは、さすがに名刹の風格があります。
山門は常閉のようなので、脇の通用門から参内します。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 通用門


【写真 上(左)】 境内1
【写真 下(右)】 境内2

境内も手入れが行き届き、清々しい空気が流れています。
覆堂内に子育地蔵と数体のお地蔵さま。


【写真 上(左)】 子育地蔵
【写真 下(右)】 本堂への参道


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。身舎の材質は木造ではありませんが、色調がシックで落ち着いたたたずまい。
海老虹梁もしっかり造作され、向拝手前の青銅色の天水受がいいアクセントになっています。


【写真 上(左)】 向拝側面
【写真 下(右)】 天水受

恵明寺のもともとの御本尊は不動明王と伝わりますが、延命寺合併時に六阿弥陀の阿弥陀如来坐像(等身大の寄木造り)が御本尊となられたようです。

御朱印は庫裡にて授与いただきました。
荒綾八十八ヶ所霊場や荒川辺八十八ヶ所霊場の御朱印の授与については不明です。

● 江戸六阿弥陀第2番目の御朱印

中央に阿弥陀如来の種子キリークの御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫と右に「第弐番」の札所印と「沼田」の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第3番目 佛寶山 西光院 無量寺
北区西ヶ原1-34-8
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
他の札所:御府内八十八箇所第59番、豊島八十八ヶ所霊場第59番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第3番、江戸八十八ヶ所霊場第59番、大東京百観音霊場第81番、、滝野川寺院めぐり第9番


『江戸名所図会』十五(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)

メジャー霊場、御府内八十八箇所第59番の札所なので、認知度は比較的高いと思います。
また、こちらは江戸時代、春夏のお彼岸にとくに賑わったといわれる江戸六阿弥陀詣の一寺(第3番目)で、もともと参詣者の多かった寺院とみられます。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号20/114)に以下の記述があります。
「新義真言宗佛寶山西光院ト号ス 慶安元年寺領八石五斗餘ノ御朱印ヲ附ラル、古ハ田端村與楽寺ノ末ナリシカ、常憲院殿厳命ヲ以テ大塚護持院ノ末トナレリ 又昔ハ長福寺ト称セシヲ 惇信院殿の御幼名ヲ避テ今ノ寺号ニ改ムト云 本尊不動外ニ正観音ノ立像ヲ置 長三尺五寸許惠心ノ作ニテ 雷除の本尊トイヘリ 中興眞惠享保三年閏正月廿三日化ス 今ノ堂ハ昔村内ニ建置レシ御殿御取拂トナリシヲ賜リテ建シモノナリト云 元境内ニ母衣櫻ト名ツケシ櫻樹アリシカ今ハ枯タリ 母衣ノ名ハ寛永ノ頃御成アリシ時名ツケ給ヒシト云伝フ」
「寺寶 紅頗梨色彌陀像一幅 八組大師像八幅 妙澤像一幅 不動像一幅 六字名號一幅。以上弘法大師ノ筆ト云 其内名號ニハ大僧都空海ト落款アリ 菅家自畫像一幅」
「七所明神社 村ノ鎮守トス 紀伊國高野山四社明神ヲ寫シ祀リ天照大神 春日 八幡三座を合祀ス 故ニ七所明神ト号ス 末社ニ天神 稲荷アリ 辨天社」
「阿彌陀堂 行基の作 坐像長三尺許六阿弥陀ノ第三番ナリ 観音堂 西國三十三所札所寫ナリ 鐘樓 安永九年鑄造ノ鐘ヲ掛 寺中勝蔵院 不動ヲ本尊トス」

創建年代は不明ですが、『滝野川寺院めぐり案内』には「現在当山には9~10世紀の未完成の木像菩薩小像と、12世紀末の都風といわれる等身の阿弥陀如来像が安置されている。さらに正和元年(1312年)、建武元年(1334年)の年号を始めとする30数枚の板碑が境内から出土しているから、少なくとも平安時代の後期には、この地に寺があったことはまず間違いないであろう。」と記されています。

また、北区設置の説明板には『新編武蔵国風土記稿』や寺伝等には、慶安元年(1648年)に幕府から八石五斗余の年貢・課役を免除されたこと、元禄十四年(1701年)五代将軍綱吉公の生母桂昌院が参詣したこと、以前は長福寺と号していたが、寺号が九代将軍家重公の幼名長福丸と同じであるため、これを避けて現在の名称に改めたことなどが記されています。

江戸時代には広大な寺域を有していたといわれ、当寺が別当を勤めた「七社」はその境内に鎮座されていたと伝わります。
『江戸名所図会』には無量寺境内とみられる高台(現・旧古河庭園)に「七社」が表され、現・旧古河庭園の一部も無量寺の境内であったことがうかがわれます。
大正三年(1914年)、古河財閥3代当主の古河虎之助が周囲の土地を購入したという記録があるので、その時に古河家に移った可能性があります。
なお、「七社」は神仏分離の翌年明治二年(1869年)に一本杉神明宮の社地(現社地)に遷座されています。


【写真 上(左)】 七社神社
【写真 下(右)】 七社神社の御朱印(旧)

西ヶ原村の総鎮守であった七社神社には、西ヶ原村内に飛鳥山邸(別荘)を構えた渋沢栄一翁が氏子として重きをなし、所縁の品々が残されています。
旧古河庭園は陸奥宗光や古河財閥の邸宅であり、このあたりは府内屈指の高級住宅地であったことがうかがわれます。

現在でも、落ち着いた邸宅がならぶ一画があり、いかにも東京山の手地付きの富裕層が住んでいそうな感じがあります。
内田康夫氏の人気推理小説「浅見光彦シリーズ」の主人公浅見光彦は西ヶ原出身の設定で、家柄がよく、相応の教養や見識を身につけていることなどは、このあたりの地柄を物語るものかもしれません。(内田康夫氏自身が西ヶ原出身らしい。)

このあたりの主要道は、不忍通り、白山通り(中山道)など谷間を走る例が多いですが、本郷通りは例外で、律儀に台地上を辿ります。
第七番城官寺、あるいは西ヶ原駅・上中里駅方面からだと本郷通りを越えての道順となるので、本郷通りからかなりの急坂を下ってのアブローチとなります。
旧古河庭園の裏手にあたるこの坂道は木々に囲まれほの暗く、落ち着いた風情があります。

坂を下りきり、右手に回り込むと参道入口です。
入口回りは車通りも少なく、相応の広さを保って名刹の風格を感じます。
ここで心を落ち着けてから参詣に向かうべき雰囲気があります。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 参道


【写真 上(左)】 ことぶき地蔵尊
【写真 下(右)】 山門

参道まわりに札所碑、地蔵立像、ことぶき地蔵尊など、はやくも見どころがつづきます。
そのおくに山門。この山門は「大門」と呼ばれ、棟木墨書から伏見の柿浜御門が移築されたものとみられます。本瓦葺でおそらく薬医門だと思います。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 江戸六阿弥陀札所碑


【写真 上(左)】 中門
【写真 下(右)】 秋の山内



【写真 上(左)】 秋の地蔵堂と参道
【写真 下(右)】 地蔵堂と鐘楼

さらに桟瓦葺の中門を回り込んで進む奥行きのある参道です。
緑ゆたかな境内は手入れも行き届き、枯淡な風情があります。
御府内霊場のなかでも屈指の雰囲気ある寺院だと思います。
左手に地蔵堂と鐘楼を見て、さらに進みます。


【写真 上(左)】 見事な紅葉
【写真 上(左)】 冬の山内


【写真 上(左)】 早春の本堂
【写真 下(右)】 秋の本堂


【写真 上(左)】 右斜め前から本堂
【写真 下(右)】 向拝

正面に本堂、向かって右手に大師堂、左手に進むと庫裡があります。
本堂前では数匹のおネコちゃんがくつろいでいます。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 まどろむネコ

本堂は、寄棟造平入りで起り屋根の向拝を付設。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
扁額は「無量寺」。格天井。向拝屋根には「佛寶山」の山号を置く鬼板と兎毛通。
落ち着いた庭園に見合う、風雅な仏堂です。

本堂には阿弥陀如来坐像と、御本尊である不動明王像が御座します。
この阿弥陀如来像は、江戸時代に、江戸六阿弥陀詣(豊島西福寺・沼田延命院(現・足立区恵明寺)・西ヶ原無量寺・田端与楽寺・下谷広小路常楽院(現・調布市)・亀戸常光寺)の第3番目として広く信仰を集めた阿弥陀様です。

御本尊の不動明王像は「当寺に忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝捕まったことから『足止め不動』として信仰されるようになった」という逸話が伝わります。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 上(左)】 大師堂の堂号板

本堂向かって右手の大師堂は宝形造桟瓦葺で向拝を付設し、向拝柱に「大師堂」の板標。
大師堂の中には恵心作と伝わる聖観世音菩薩像が安置されており、「雷除けの本尊」として知られています。
本堂のそばには、上野王子駒込辺三十三観音霊場第3番の札所標も建っており、札所本尊は聖観世音菩薩と伝わるので、この「雷除けの本尊」が札所本尊かもしれません。

御朱印は本堂向かって左の庫裡で拝受できます。
原則として書置はないようで、ご住職ご不在時は郵送にてご対応いただけます。
なお、複数の霊場の御朱印を授与されておられるので、事前に参詣目的の霊場を申告した方がよろしいかと思います。

● 江戸六阿弥陀如来第3番目の御朱印

中央に「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫と阿弥陀如来の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第三番」の札所印。右に「西ヶ原」の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


【上(左)】 御府内八十八箇所第59番の御朱印(専用納経帳)
【下(右)】 御府内八十八箇所第59番の御朱印(御朱印帳揮毫)
中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「第五十九番」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


● 豊島八十八ヶ所霊場第59番の御朱印
中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「第五十九番」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


● 滝野川寺院めぐり第9番の御朱印
中央に「不動明王」と不動明王の種子「カン」の揮毫と御寶印(蓮華座)。
右上に「滝野川寺院めぐり 第九番寺」の札所印。右に弘法大師の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第4番目 宝珠山 地蔵院 與楽寺
北区田端1-25-1
真言宗豊山派
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:御府内八十八箇所第56番、豊島八十八ヶ所第56番、大東京百観音霊場第82番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第21番、江戸八十八ヶ所霊場第56番、九品仏霊場第3番(上品下生)、豊島六地蔵霊場第1番、、滝野川寺院めぐり第1番


『江戸名所図会』十五(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)

 
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 修行大師像と札所標

弘法大師の建立とも伝わり、慶安元年(1648年)に寺領20石の御朱印状を拝領、京都仁和寺の関東末寺の取締役寺を務められ末寺20余を擁したとされる名刹です。
『滝野川寺院めぐり案内』には康歴三年(1381年)銘の石塔の存在が記され、寺歴は相当に古そうです。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号21/114)には以下の記述があります。
「新義真言宗京都仁和寺末 寶珠山地蔵院ト号ス 慶安元年八月二十四日寺領二十石ノ御朱印を賜フ 本尊地蔵ハ弘法大師ノ作ナリ 昔當寺へ或夜賊押入シ時 イツク●ナク数多ノ僧出テ賊ヲ防キ遂ニ追退タリ、翌朝本尊ノ足泥ニ汚レアリシカハ、是ヨリ賊除ノ地蔵ト号スト伝フ 開山ヲ秀榮ト云」「鐘樓 寶暦元年鑄造ノ鐘ヲカク」「阿彌陀堂 本尊ハ行基ノ作ニテ六阿彌陀ノ第四番ナリ」「九品佛堂 是モ近郷九品阿彌陀佛ノ内第三番ナリト云」

複数の霊場の札所を兼ねておられ、とくに御府内八十八箇所と武州江戸六阿弥陀で参拝される方が多いのでは。

こちらのご住職は滝野川寺院めぐり開創当時の滝野川仏教会の会長で、そのことから札所1番発願寺を務められているものと思われます。

豊島郡有数の名刹の歴史を語るように、ゆったりとした間口を構えます。
山門は平成29年(2017年)建立で、切妻造本瓦葺の立派な四脚門。
山門左手には修行大師像と、御府内霊場第五十六番、六阿弥陀第四番の両札所標、それに上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所標「西國廿一番 丹波國阿のう寺写」があります。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 霊堂

参道を進むと左手に霊堂。宝形造唐破風向拝の少し変わった雰囲気のお堂です。
その先には鐘楼。さらに進んだ右手にも宝形造のお堂があって、伽藍は整っています。
境内はよく整備され、名刹特有の荘厳な空気がただよっています。


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 右手のお堂と客殿


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

参道正面に本堂。
入母屋造本瓦葺流れ向拝。降り棟、隅棟、稚児棟をきっちり備える堂々たる仏殿です。
水引虹梁両端に雲形木鼻、頭貫上に出三ツ斗、身舎側に海老虹梁と雲形の手挟を伸ばし、中備に板蟇股を置いています。
正面桟唐戸の上に「與楽寺」の扁額。
向拝両脇の花頭窓と身舎欄間の菱格子が、引き締まった印象を与えます。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂向拝見上げ

本堂に御座す御本尊の地蔵菩薩は弘法大師の御作と伝わり、盗賊の侵入を追い返された「賊除地蔵」としても知られる秘仏です。

本堂右手が客殿。切妻造桟瓦葺唐破風付きの整った意匠は、本瓦葺の本堂とバランスのよい対比を見せています。

本堂右手脇にも上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所標がありますが、こちらは「西國弐拾九番」となっています。
第29番は東覚寺で、標中に「是」「道」の文字があるので、札所導標かもしれません。


【写真 上(左)】 客殿
【写真 下(右)】 阿弥陀堂

本堂向かって右手が阿弥陀堂で、こちらは武州江戸六阿弥陀第4番目の札所です。
「江戸六阿弥陀」と「滝野川寺院めぐり」とは複数の札所(第1番與楽寺、第9番無量寺、第10番昌林寺)が重複しています。

入母屋造桟瓦葺流れ向拝。水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
正面板戸の上に「六阿弥陀 第四番」の扁額。
シンプルな虹梁と両脇の連子が効いて、シャープな印象の向拝です。
札所本尊の阿弥陀如来は行基作と伝わります。


【写真 上(左)】 阿弥陀堂の扁額
【写真 下(右)】 本堂と阿弥陀堂のあいだのナゾのお堂

阿弥陀堂の右手、本堂とのあいだにもうひとつ宝形造のナゾのお堂がありますが詳細不明。
お堂の手前に観音様の線刻碑があるので、観音堂かもしれません。

御朱印は本堂向かって右手の客殿で拝受します。ここは5回以上参拝していますが、いずれも揮毫御朱印をいただけました。

● 江戸六阿弥陀第4番目の御朱印

中央に三寶印と「六阿弥陀如来」と阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の揮毫。右に「第四番」の札所印と「田端」の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


【上(左)】 御府内八十八箇所第56番の御朱印
【下(右)】 豊島八十八ヶ所第56番の御朱印


滝野川寺院めぐり第1番の御朱印
御朱印は、中央に「本尊 地蔵菩薩」の揮毫と三寶印の捺印、右に「弘法大師」の揮毫。
左下に寺号と寺院印、右上に各霊場の札所印。
尊格構成は御府内霊場、豊島霊場、滝野川寺院めぐりともに同様です。

■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 御編 】へつづく


【 BGM 】
■ ひらひら ひらら - ClariS


■ 夢の途中 - KOKIA


■ 潮見表 - 遊佐未森
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