会期:2024/02/06~2024/04/09(会期途中で建物工事の影響で中止)
会場:国立国際美術館[大阪府]
公式サイト:https://www.nmao.go.jp/events/event/collection20240206/

ここ数年、新収蔵品を軸に充実したコレクション展が続く国立国際美術館。「コレクション1 遠い場所/近い場所」展(2022)では沖縄出身の作家3名(石川竜一、山城知佳子、ミヤギフトシ)を小特集に組み、「コレクション1 80/90/00/10」展(2023)では、村上隆、中原浩大、ヤノベケンジ、國府理、会田誠といった作家群と西山美なコを対比させ、漫画やアニメ、プラモデル、クルマといった「サブカルチャーの引用」それ自体がジェンダーによって領域化されている構造を浮かび上がらせた。

「コレクション2 身体───身体」展は、新収蔵品のお披露目として、抱き合う/拘束する男女を古着を縫い合わせて形作り、ガラスケースに閉じ込めたルイーズ・ブルジョワの立体作品《カップル》(1996)で始まる。また、ブブ・ド・ラ・マドレーヌのインスタレーションと、石川真生の1970年代の写真シリーズ「アカバナー」も目玉のひとつだ。沖縄出身の作家や女性作家に層の厚みが加わった。さらに、ダムタイプの『S/N』(1994)に出演するなど90年代のHIV/エイズをめぐる表現・人権運動に関わったブブ・ド・ラ・マドレーヌの作品の収蔵によって、鷹野隆大やミヤギフトシ、フェリックス・ゴンザレス=トレスやヤン・ヴォーなど「クィア」の文脈における(ゲイ)男性中心性が相対化されていく。また、「沖縄出身の作家」と言っても、世代差によって「沖縄」に対する距離感の差異があることが、例えば石川真生(1953年生)と山城知佳子(1976年生)の対比によって見えてくる。沖縄返還をめぐる基地存続反対デモに参加し、米兵向けのバーで働きながら同僚の女性や米兵たちを親密な距離感と視線で撮影した石川には「ヤマトに対して闘う」姿勢が表出するが、山城は一歩退いた視線で沖縄の置かれた矛盾を皮肉に見つめている。


ルイーズ・ブルジョワ《カップル》(1996)[提供:国立国際美術館 撮影:福永一夫]


石川真生「アカバナー」(1975-77)より [提供:国立国際美術館 撮影:福永一夫]

このように、これまで周縁化されてきた「沖縄」「女性」「クィア」といった領域を積極的にカバーしていくという学芸員の意識が、コレクション展にこそ顕著に表われているといえる。コレクション展は「花形の企画展の影に隠れたおまけ」ではなく、むしろコレクション展でどのような姿勢を打ち出すかという点こそ、美術館内部の問題意識を映し出す批評的装置なのだ。そして、美術館のコレクションとは、「固定化された静的な状態」ではなく、「現在」の問題意識を反映し、新たな収蔵品が入力されることで、作品どうしのネットワークが再接続され、つねに動的に読み替えられていく巨大で潜在的なテクストなのである。

そうした、「コレクションの再配置による批評的視座」が際立つ例が、肥満した中年男性の裸体を「西洋古典絵画の女性ヌード」の規範的作法に則って撮影した鷹野隆大の写真作品と、「乳白色の肌」の裸婦像を描いた藤田嗣治の絵画の対置である。鷹野の《ヨコたわるラフ(1999.09.17.L.#11)》(1999/2020)では、坊主頭で肥満体の中年男性が、ドミニク・アングルの《グランド・オダリスク》(1814)を引用したポーズで横たわる。一方、藤田の《横たわる裸婦(夢)》(1925)は、天幕が覆うベッドで無防備に眠る、金髪に白い肌の裸婦が描かれ、ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》(1538)のポーズをほぼ左右反転させた引用を思わせる(裸婦の足元に寝そべる犬や猫もティツィアーノを踏襲している)。


左より:藤田嗣治《横たわる裸婦(夢)》 (1925)、パブロ・ピカソ《肘かけ椅子に坐る裸婦》(1964)、鷹野隆大 《ヨコたわるラフ(1999.09.17.L.#11)》(1999/2020)[提供:国立国際美術館 撮影:福永一夫]

「理想化された女性ヌード」の引用とその落差を対置させることで、「誰の視線と欲望によって、女性の身体表象が領有されてきたのか」という問題が浮かび上がる。鷹野は、「横たわる裸婦」というタイトルの平凡性を反復しながらズラすことで、「女性のヌード」とは美術史のマスターピースという表象における規範の再生産であることを露呈させる。同時に、西洋美術史において男性画家たちが連綿と生産し続けてきた「理想的な女性ヌード」を、「脂肪のついたふくよかな中年男性の裸体」に書き替えることで、ヘテロセクシュアル男性の欲望の中心性を脱臼させる。それはまた、「若く筋肉質な鍛えた身体」という男性の身体表象の規範美の脱構築であると同時に、「ヘテロセクシュアル男性の欲望が抑圧してきた、ゲイ男性としての視線の主体性を取り戻す」という試みでもある。

そして、表象・・だけでなく、物質・・性の次元の双方において、「女性の身体の領有」を問うのが、過激なボディパフォーマンスを記録したオルランの写真作品《これが私の身体・・・これが私のソフトウェア・・・》(1993/2007)だ。オルランは、西洋古典絵画に描かれた女神や女性像の顔から、「美容整形カタログ」のように目や鼻、唇など各パーツを選び、「理想美のコラージュという究極の完全美」を自らの顔で体現するべく、美容整形手術を施すパフォーマンスを行なった。術後に撮影されたポートレートは、傷痕と腫れが痛々しい。「私の身体は私のもの」というフェミニズムのスローガンは、安全な中絶の権利獲得など、女性自身が身体の自己決定権を持つことを提唱してきた。オルランのパフォーマンスは、これまで一方的に男性によって「表象」として領有されてきた女性の身体を、文字通り自身の生身の身体に取り戻そうとする試みである。だが一方で、そこには、「男性による規範美をツギハギして再引用する」というジレンマが発生し、彼女の身体は男性の視線からの脱領土化を企てると同時に、再領土化されてしまう危険性をはらんでいる。「傷痕の痛み」は、「賛美」という形で身体の規範が一方的に押し付けられてきた「痛み」の物資的な可視化であると同時に、身体の脱領土化/再領土化のジレンマがもたらす苦痛でもある。だが、「無残な手術痕」は、整形としては「失敗」であるが、「完全な理想美の否定」という点では(シニカルな、そして痛みを伴った)勝利でもある。こうした(手術による身体の変容の痛みを伴う)「身体の脱/再領土化」という主題は、ブブ・ド・ラ・マドレーヌのインスタレーションへと引き継がれていく。


左より:加藤泉《無題》(2019)、馬六明《ベイビー No.6》(1998)、オルラン《これが私の身体・・・これが私のソフトウェア・・・》(1993/2007)[筆者撮影]

本稿の後編では、ブブのインスタレーションについて、同時期にオオタファインアーツで開催された個展での新作とも関連づけながら、「身体」「領土」「所有」「クィア」といったキーワードから、ブブとゴンザレス=トレスの両作品について述べる。

後編へ続く)


関連レビュー

「コレクション2 身体───身体」(後編)、ブブ・ド・ラ・マドレーヌ「花粉と種子」|高嶋慈:artscapeレビュー(2024年03月27日)
コレクション1 80/90/00/10(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年07月15日号)
コレクション1 遠い場所/近い場所|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年08月01日号)

鑑賞日:2024/02/06(火)