【レビュー】「追悼展 原田泰治の世界 鳥の目虫の目 日本の旅」8月27日(日)まで長野・諏訪市原田泰治美術館で

追悼展 原田泰治の世界 鳥の目虫の目 日本の旅
会場:諏訪市原田泰治美術館(長野県諏訪市渋崎1792-375 ℡0266-54-1881
会期:2023421(金)~827日(日)
休館日:毎週月曜日(祝日開館)
開館時間:午前9時~午後5時(最終入館は閉館30分前まで)
観覧料:おとな840円、中・高校生410円、小学生200円ほか
詳しくは、同館公式サイト
諏訪湖畔に立つ諏訪市原田泰治美術館

 高い視点からの風景 花や石垣の細密描写

日本各地の懐かしい風景を詩情豊かに描き、「素朴画(ナイーブアート)」を確立した原田泰治。没後1年の追悼展がゆかりの地・長野県諏訪市にある諏訪市原田泰治美術館で開かれている。展示されているのは、かつて画家の名と画風を世に知らしめた朝日新聞日曜版掲載の全127作品の原画。会場全体が郷愁に覆われるが、個々の作品を見ると「鳥の目」がとらえた広々とした風景や、「虫の目」で花びら1枚、石垣の石1個まで忠実に再現した細密描写に驚き、ぐいぐいと引き込まれる。

原田泰治 1998年撮影

眼下の村を眺め、花や虫を見つめる

原田泰治は1940(昭和15)年、諏訪市の看板職人の家に生まれた。翌年、小児まひにかかり両足が不自由に。小学校には杖をついて通った。そんなハンデを背負った原田少年だったが、両親の愛情を浴び、快活さを失わなかった。

父親が開拓農民への転身を決めたのを機に、一家は同じ長野県南部の山村の丘の上にあった未開地に転居した。原田少年は日々ムシロに座り、懸命に働く家族や眼下に広がる村の風景を眺め、足もとの昆虫や草花を観察した。この時間が「鳥の目 虫の目」をはぐくむことになる。

原田が長年、仕事とプライベートの両方で愛用した乗用車

中学の途中で一家は諏訪に戻り、原田は長野県諏訪実業高校に入学。大好きだったデザインを学び、身を立てようと東京の武蔵野美術短大に進んだ。卒業後は東京で親戚が経営する会社に就職し、商業デザインの仕事に就いた。しかし、不自由な足で満員電車に揺られ、駅で急ぎ足の群衆にもまれる苦痛に耐えられず、失意のうちに諏訪に戻った。

23歳でグラフィックデザイナーとして独り立ちしたが、支えになったのは絵だった。心の中のふるさとや思い出を描き、自らの癒しにした。家族からプレゼントされた自動車のハンドルを握り、デザインの仕事や絵の取材、後年妻に迎える女性とのデートに出かけた。行動範囲が広がるたびに、絵と人生の両方の視野も開けていった。

「原田泰治の世界展」で掲載された全127作品が並ぶ展示会場

毎週1枚、全国くまなく行脚

書籍「草ぶえの詩」は第29回小学館絵画賞に輝いた。朝日新聞日曜版編集長の目にもとまった。「うちの新聞であなたの絵を紹介したい」。原田が手がけたのはアクリル画だった。アクリル絵の具は発色がよいうえ、油彩画や日本画と違って水だけで使えて、失敗しても重ね塗りができる。乾くのも早い。そんな特徴もこの仕事に向いていた。

こうして1982(同57)年、日曜版1面の連載「原田泰治の世界」が始まった。日曜版は毎週発行。全国紙なので取材行脚は北海道から沖縄まで全都道府県に及んだ。原田はそれまで旅らしい旅などほとんどしたことのなかったにもかかわらず、カメラと分刻みのスケジュール帳を手に1週間で4~5県を回り、諏訪に戻っては大急ぎで絵を仕上げるという超ハードな生活を続けた。しかも毎回、絵にあわせて文章を書いた。相当な体力的労苦とプレッシャーを背負いながら、2年半後の最終127回まで休載することなく完走した。

原田が使用したアクリル絵の具や絵筆

「魂のふるさとを残してくれた」

連載は原田本人の名も全国区に押し上げ、取材や展示会など活動範囲もアメリカ、ブラジル、中米はじめ海外へと雄飛した。絵本の映画化も実現した。創作にまい進する一方、2019年には親睦が深かった医師兼作家の鎌田實さんらと「らくらく入店の会」を立ち上げ、車いすでも気兼ねなく入れるバリアフリーの店の拡大に尽力した。そんな人並み以上のバイタリティーの持ち主だった原田も病魔にむしばまれ、20223月帰らぬ人となった。

諏訪市は原田を顕彰し、1998(平成10)年、諏訪市原田泰治美術館を開館。これも親密な関係だった歌手の さだまさし さんを名誉館長に迎えた。同館は原田が健在だったころ「原田泰治の世界展」を開催したが、没後1年の追悼展として本展を企画した。

今回は初日のオープンセレモニーで鎌田さんが「日本の魂のふるさとを原田泰治の目で残してくれた」と故人をたたえ、5月に同市文化センターで開かれた「偲ぶ会」では、さださんが「ラジオで(原田を)好きな画家と紹介したら、泰ちゃんがコンサートに来てくれた」と思い出を披露した。

作品を解説する両角学芸員

「心の目で自由に想像してほしい」

原田の画風の特徴は「鳥が空から見下ろしているように、高い視点から風景を広くとらえている(鳥の目)」「虫が間近で観察したような花や草木、石垣、動物の毛並みなどを細密描写している(虫の目)」「人物の顔に温かみを感じさせるような頬の赤みこそ描かれているが、目鼻口は描いていない」の3点が挙げられる。

目鼻口を描かなかった理由の答えを、同美術館の両角綾佳学芸員から「原田さんは『登場人物の表情や気持ちは鑑賞者の心の目で自由に想像してほしい』と考え、初期のころから描きませんでした」と教わった。この説明を参考に展示作品の中の10点を鑑賞し、日曜版に原田が書いた文章(抜粋)を読んでいくことにしよう。

「あんずの里」1982年 ©Taizi Harada

最初はあんずの産地で知られる長野県更埴市(現千曲市)で描いた「あんずの里」(198244日掲載)。

信州に遅い春が訪れる4月中旬、更埴市の郊外、森・倉科地区は、15万本といわれるあんずが、いっせいに咲き誇る。その様相は、山あいのこの地が、綿菓子にすっぽり包まれてしまったのではないか、と錯覚するほどである。(原田文、以下同じ)

「小さな電車」1982年 ©Taizi Harada

次は千葉の銚子電鉄を描いた「小さな電車」(同81日掲載)。

三方を海に囲まれた漁業の町銚子に、小さな電車が走っている。銚子駅から外川駅まで、6,4キロを潮風を受け車体を左右に揺らしながら時速20キロでのどかに走る。

「島の床屋」1983年 ©Taizi Harada

「島の床屋」(83522日掲載)の取材地は沖縄・竹富島。島で原田の絵心をくすぐったのも真っ青なビーチではなく、一軒の小さな床屋だった。

島には一軒しかない小さな床屋さんがある。燃えるようなハイビスカスの咲く縁先で、杖を頼りに集まってきた老人たちは、世間話に花を咲かせて順番を待つ。サンゴの白い砂を敷き詰めた道が、南国の日差しを受けてまばゆい。

「高原の花」1983年 ©Taizi Harada

こちらは故郷の諏訪市・霧ケ峰高原を描いた「高原の花」(同724日掲載)。

高原全体を橙色に染めつくしてしまうニッコウキスゲは、霧ヶ峰高原で7月中旬からいっせいに咲きはじめる。ニッコウキスゲは、その日しかもたない一日花だ。短い命のたくさんの花が7月末まで次から次へと咲き、草原をうめつくす。

「栗ひろい」1983年 ©Taizi Harada

次も長野県。栗で名高い小布施町で描いた「栗ひろい」(同925日掲載)。

小布施町はこんもりと茂った栗林をあっちこっちで見かける。わずかな風にカサコソ音をたてる栗林では、朝早くから栗拾いする人を見かけた。秋まっさかりである。

「ハス田」1983年 ©Taizi Harada

西に舞台を移し、山口県岩国市の「ハス田」(同1016日掲載)。

岩国では、ちょうどレンコン掘りの真っ盛りであった。レンコン掘りは一番の重労働で、土の中を縦横にレンコンが走っているため機械化できない。食卓のレンコンからは想像できない泥との戦いに見えた。

「白糠線」1983年 ©Taizi Harada

今度は一気に北海道白糠しらぬか町に飛んで「白糠線」(同1113日掲載)。

白糠線は、石炭輸送や沿線の開発のため開通したが、198310月に廃止された。紅葉がまっさかりの酪農地帯では、乳牛が牧草を食べていた。現在終点となっている北進。北へ北へと鉄道の延長を願う人々の心が、二文字に込められている。

「ボンネットバス」1984年 ©Taizi Harada

東北に下って岩手県平泉町の「ボンネットバス」(8471日掲載)

平泉町で、エンジン部が運転席の前に突き出たボンネットバスが走っていた。ぼくの少年時代はほとんどがこの形であった。遠野の山間地などを走って廃車寸前だったのを、整備し観光用として再登場させたという。

「ジャガイモの花」1984年 ©Taizi Harada

もう一度北海道に戻り、美深びふか町で描いた「ジャガイモの花」(同722日掲載)。

美深町は、道内でも気象条件がきびしい。それでも農家の人々はこの地にジャガイモをつくってきた。白い花が一面に広がり、甘酸っぱい香りが漂うイモ畑は、北海道ならではの風景だ。

「新聞少年」1984年 ©Taizi Harada

最後に紹介するのは長野県北部の小谷村で見た「新聞少年」(同930日掲載)。

小谷村は9月上旬だというのに肌寒い。一番鶏が鳴く5時半、新聞少年が集まってくる。早起きの家から「ご苦労さん」の声が返ってきた。やがて容赦なく降る雪は、少年たちの足をさえぎる。でも励ましの声を胸に冬をのりきるだろう。

「新聞少年」は連載の最終回でもあったが、山村の新聞配達の少年で掉尾を飾ったのには理由があったという。両角学芸員は「原田さんは自分の作品が載った新聞を毎週配り続けてくれた全国の新聞少年に感謝の気持ちを込め、最終回にこの題材を選びました。原田さんがずっと心の中で温めていたモチーフでした」と解説した。

目の不自由な人のための鑑賞コーナー

「大好きな乗り物を描いた」

電車、ディーゼル列車、ボンネットバス。原田の作品には乗り物が多く出てくることに気づいた。ほかの作品では船や熱気球などを描いている。両角学芸員は「原田さんは大の乗り物好きでした。汽車好きで知られる映画監督の山田洋次さんとも交流がありました。原田さんは日本の原風景を描いた素朴画の画家で知られていますが、乗り物をたくさん描いた画家でもあります。本展ではそんな一面も紹介したいと思いました」と語った。

館に展示されている原田の筆跡

両角さんにお礼を言い、美術館を辞したあと、最寄りのJR上諏訪駅諏訪湖口前のそば屋ののれんをくぐった。もりそばを注文し、有名人らの色紙で埋まった店の壁を見回すと、ついさっき美術館で見た温かみのある書体が目に飛び込んできた。原田が書いた色紙だった。「ふる里はいいもんだ。母さんの懐かしさがある」。改めて読み直したところでそばが出てきた。「ふる里におふくろか――」。しみじみした思いが薬味になって、そばの味をいっそう深くした。(ライター・遠藤雅也)