ロヒール・ファン・デル・ウェイデン

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン

Unknown 1464

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(蘭: Rogier van der Weyden、1399年/1400年 - 1464年6月18日)は、初期フランドル派の画家。現存しているファン・デル・ウェイデンの作品の多くは、キリスト教的主題が描かれた祭壇画と肖像画である。伝わっているその生涯は平穏でとくに大きな出来事などは起こっていないが、当時もっとも成功しており、国際的な名声を得ていた画家だった。その作品はイタリアやスペインへも持ち込まれ、ブルゴーニュ公フィリップ3世のようなネーデルラントの貴族階級や、諸外国の王侯貴族からの絵画制作依頼を受けていた。15世紀後半には、フランドルの宮廷画家ヤン・ファン・エイクを凌ぐまでに高い評価を得ている。しかしながら17世紀になってバロック美術が台頭し、絵画の潮流が変化していくとともにファン・デル・ウェイデンの名声は低くなり、18世紀半ばにはほとんど忘れ去られた画家となっていた。しかしその後200年の間に、徐々にではあるがファン・デル・ウェイデンの再評価が進み、現在ではロベルト・カンピン、ヤン・ファン・エイクとともに初期フランドル派を代表する三大巨匠であり、15世紀の北方絵画においてもっとも影響力があった画家とみなされている。

1695年と1940年に当時の記録文書が失われ、ファン・デル・ウェイデンの生涯についてはわずかなことしか分かっておらず不明な点が多い。現在のベルギーにあたる、 ブルゴーニュ領ネーデルラントのトゥルネーで1399年か1400年に生まれた。出生名はロジェ・ド・ラ・パステュールで、父はヘンリ・デ・レ・パストゥール、母はアニエス・デ・ワットルローである。ファン・デル・ウェイデンは1426年ごろにエリザベト・ホッファールと結婚しており、1436年にはブリュッセルの公式画家となった。このときに自身の名前をフランス風からオランダ風の「ファン・デル・ウェイデン」に改めたと考えられている。これら以外のファン・デル・ウェイデンの生涯は二次的資料から推測するほかなく、議論の的となっているものもある。しかしながら、現在ファン・デル・ウェイデンの作品とされている絵画が真作かどうかの議論になることはまずない。逆に19世紀では、現在ファン・デル・ウェイデンの真作とされている作品が、他の画家の作品であると考えられていたことも多かった。

ファン・デル・ウェイデンは自画像を描いておらず、重要な作品の多くが17世紀後半に失われてしまっている。ファン・デル・ウェイデンのものと見られる最初期の記録は1427年からで、1427年から1432年にかけてロベルト・カンピンのもとで修行をしていたというものである。そして間もなく師のカンピンの技量を上回り、最終的にはカンピンの作品に影響を及ぼすまでに優れた技術を身につけたといわれるが、ファン・デル・ウェイデンがカンピンの弟子だったという説にも異論がないわけではない。徒弟期間を終えたファン・デル・ウェイデンは、トゥルネーの芸術家ギルドの聖ルカ組合にマイスターとして登録されている。1435年に移住したブリュッセルでも、その卓越した技術と感情豊かな筆使い、色彩感覚はすぐさま高い評価を受けるようになった。1435年には代表作の一つ『十字架降架』を描きあげ、北ヨーロッパでもっとも人気があり、影響力の高い画家であるという評価を不動のものとした。

ファン・デル・ウェイデンは人物像を描くときに、実在の人物をモデルにした。その観察力は非常に高かったが、表情などモデルの特定の要素を優雅に理想化して描くことも多く、とくに三連祭壇画に描かれた人物像にその傾向が強い。つねに豊麗で温かみのある色使いで感情豊かな人物像を描いているが、作品に感じられる哀愁感と写実主義でも高く評価されている。ファン・デル・ウェイデンの肖像画の多くは上半身のみで斜め前を向いた作品で、宗教的な祭壇画と同じように好んでよく描いている。ファン・デル・ウェイデンは異例なまでに多くの色と様々な色調を用いて絵画を描いた。もっとも優れた作品では一箇所として同じ色調は見られず、白色でさえも様々な階調で塗り分けられている。

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